煉瓦化粧の街角・後編
墨のような夜空に浮かぶ観覧車きらきらと回る回転木馬
会場から出ると空は既に暗く、街灯が煌々と辺りを照らしていた。
未だ醒めやらぬ興奮が胸の鼓動を高めている。
長く手を打ちすぎて、掌が赤くなっていた。
その場場に居た誰も彼もが、惜しげもなく万感の思いを込めて手を打つ。立ち上がって歓声を上げる者すらいた。
一つ一つに応えるように、壇上に立つ金髪の女性は何度も頭を下げる。
まだ耳の奥でヴァイオリンの音が鳴っているような気がした。
カクテルドレスに身を包んだ長身の女性は、体格もさることながら存在の全てで他を圧倒している。
何よりその音には、聞く者を引きずり込む強烈な磁力を持っているようだった。
体の芯を揺さぶって、目眩のように世界が回る。
一方で曲調に合わせて次々と色を変えていく器用さも持ち合わせ、感情の機微を丁寧に描く。
次にどんな音が飛び出すのか、わくわくした。この気持ちさえ、彼女にコントロールされているような気がした。
その指一つで、世界を支配するのだ。
ソリストという存在がどういうものかを、思い知らされた気がした。
世の中に、ヴァイオリンを弾きこなす人は大勢居る。
卓越した技術を身につけ、表現力豊かな人も数えられないほど存在する。
その誰もがソリストになるわけではない。
運良くなれたとしても成功するかどうかは、また別の問題だろう。
聴衆の頭に強く強く、焼き鏝を押し付けるように印象づけることができる人こそ、一流として世界を渡っていくのだ。
そうでなければ、小手先程度の音色なんて星の数ほど居る奏者の中で霞んでしまう。
「……それで、君自身はどうするか、見えたのかね?」
「う、うーん、それは────」
思ったままを吉羅に伝えてみるが、自分自身がどうしたいかと問われると答えに詰まる。
思うままに音を奏で、それを聴いてくれる人に届けたいと思う。
そのための舞台はコンサートホールでも街角でも構わない。
観客は一人でも大勢でもいい。
ヴァイオリンを弾きたい。至極単純な欲求が、ただそれだけの気持ちが、香穂子を動かしてきた。
独奏も合奏もそれぞれ楽しかったから、どちらを選べと言われても迷う。
考え込んでしまった香穂子を見つめ、吉羅の表情が少しだけ緩んだ。
しかし吉羅はすぐに顔を正面に向けてしまったので、香穂子がそれを見ることは叶わなかった。
「急がなくていい。時間はまだあるのだから、じっくり考えなさい」
「はい」
会場から出てくる人の流れは、そのまま最寄り駅へと続く。
吉羅の足はそこから逃れる方向へと進んだ。
「駐車場に行ってくる。こちらに車を回すから少しここで待っていなさい」
「え?」
「家まで送ろう」
「あ、ありがとうございます」
まるでヨーロッパの骨董品にでもなりそうな装飾が施された街灯の下に立って、香穂子は歩き去る吉羅の背中を見つめた。
大きく息を吐き出す。
外はひんやりと涼しくて、ショールでも持ってくればよかったと後悔がよぎる。
今夜、吉羅と連れだって出かけることばかり気にして、他に気を回す余裕が無かった。
こうして街角に一人立っていると、置いて行かれたような寂しさと同時にほっと胸を撫で下ろす安堵も沸き上がってくる。
吉羅の側に立っていると、どうしても緊張する。
背筋を伸ばしたまま、全身の筋肉を弛めることもできない。
近付きたいと願いながら、不用意に触れてしまうことを恐れて肩が縮み上がる心地を幾度となく味わった。
その緊張から暫し解放され、束の間安らぎを感じている。
けれど、立ち去る大きな背中を見送るのは寂しくて辛い。
なんて矛盾した感情だろう。
相反する気持ちが複雑に入り交じる。
近付きたいのに、近付かれたら怖い。
逃げ出したいのに、追いかけてくれるはずもなくて立ち往生だ。
胃の底に溜まった感情を吐き出すように、溜め息をついた。
「こんばんは」
「え?」
突然声をかけられ、香穂子はびくりと身体を震わせる。
つい思考の迷路に迷い込み、周囲が見えなくなっていたようだ。
振り返ると大学生風の男が三人、大小の楽器ケースを抱えて立っていた。
「外、ちょっと寒いけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「そう? ならいいけどさ」
「君もコンサート見に来てたんだよね? いいよね~、彼女! テクももちろんだけど、すげー迫力あってさ」
「でも、優しい曲はすげー繊細にひくよな」
「お茶目でキュートって感じもする」
「そうですね、CDで聞いてるイメージとまた違って、面白かったです」
「だろ? やっぱ生だよね~」
香穂子が相槌をうつと、話が合うね俺たちなどと言い出しては、んなわけねーだろと突っ込みが入った。
まるで台本を用意した舞台喜劇のようで、思わず吹き出してしまう。
香穂子の緊張と警戒心が解けたと見るや、三人の語調は熱を増した。
「俺たちジャズバンドやってんだけどさ、この先のクラブで。よかったら見にこない?」
「他のバンドもいくつかあるけど、俺らが一番!」
「すげー熱いよ」
「暑苦しいの間違いだろ!」
「つか、ナンパみたいじゃん、俺ら」
「え、ナンパじゃなかったのかよ」
「ごめんな、こんなノリで。引いてない? つか、どん引き?」
「あたりめーだろ、普通引くっての」
「怖がらせてどーすんだよ」
「おまえの顔が怖いんだろ」
「いえ、あのー……」
始めこそ香穂子に話しかけているのだが、三者三様に脱線している。
面白い人たちだなぁと思うが、お誘いに乗るわけにもいかない。
ほんの少しだけ、件のジャズバンドというものに好奇心が沸いた。
強気に断れなかったのは、その点が一番大きかった。
「日野くん、待たせたね」
「あ……」
「え?」
低く香穂子を呼ぶ声が、一瞬でその場を支配する。
大きくもなければ、強くもない一言だった。
しかし、大学生たちを凍り付かせるのに十分だったらしい。
突如として現れた吉羅暁彦は他を威圧し、人相から服装、立ち振る舞いに至るまで向かう所敵なしといった風情だ。
「あ、あー……なんだ、待ち合わせだったのか」
「すんません、俺ら別に何もしてないんで」
「あの、興味があったら来てね。そ、それじゃあ、俺らはこれで」
刃向かっても敵う相手ではないと即断即決だったのだろう。
香穂子に対して一番熱心に話しかけていた男がチラシを手渡し、三人はそそくさと立ち去っていった。
何が何だか解らない香穂子はぼんやりと彼らを見送り、手元のチラシを見た。
確かに、そこにはジャズバンドの案内と紹介が載っていて、色彩豊かなイラストが添えられている。
ピアノや、サックスやトロンボーンとウッドベース、パーカッションの構成で興味をひかれる。
クラシックとはさぞや違う味わいなのだろう。
吉羅のため息が聞こえ、思わず振り返った。
「あの……?」
「いや、悪かった。こんな時間に一人で待たせるべきではなかったな」
「い、いえ、そんな事」
「────乗りたまえ」
「は、はい」
吉羅に促され、香穂子は色鮮やかな高級車に近寄る。
最近はもう乗り慣れてしまったスピードを売りにした外車だ。
車高の低さやエンジンの重低音、シートベルト、かすかなシトラスの香り、その全てが己の身に馴染んでいる。
吉羅自身からも同じ系統の香りがしていて、まるで包まれているかのような錯覚さえ覚えた。
香穂子を乗せて、イタリア生まれの車は地面を這うように走り出す。
吉羅の運転は丁寧だ。
スタートもブレーキもコーナリングも滑らかで、家族の運転と比較しても雲泥の差だった。
勿論、マシン性能の差もあるのだろう。
革張りシートの座り心地は、ファミリーカー程度と比べるのも烏滸がましい。
それくらいは自動車に疎い香穂子にだって解る。
人相から服装や言動、立ち振る舞い、そして所有物。その全てが吉羅暁彦という男を表し、日野香穂子との差をまざまざと見せつけるのだ。
どれくらい走った後だろか。赤信号で停車したタイミングで、吉羅が口を開く。
「……ジャズに興味あるのかね?」
「え?」
「熱心にチラシを見ていたのでね」
「あ……、えと、はい、ちょっとだけ。モーツァルトの曲をアレンジしたものを耳にする機会があったんですけど、面白いなぁって。即興っていうのも自由でいいなぁと」
素直にうなずくと、吉羅はほんの少し口角を上げた。
苦笑、という表現が一番似合うような、珍しい顔だ。
香穂子は、思わずその横顔を注視する。
「……今度、知り合いのジャズバーに案内しよう。もちろん、ノンアルコールだが」
「えっ」
「金澤先輩も行きつけでね。言えばたぶんあの人も付いてくるだろうが、多彩なバンド編成でレベルが高い」
「それなら、三人で行きましょう。楽しそうです」
「────君がそう言うなら、打診しておこう」
信号が青に切り替わり、車は再び走り出す。
日野家に向かっているようには見えなかった。
立体交差のジャンクションを抜けて高速に上がる。明らかに逆方向だ。
吉羅が何も言わずに車を走らせ、その行き先を口にしないのは今日に限った事柄でもない。
香穂子は黙って成り行きにまかせる。
周囲の景色が移り変わり、黒い空が視界の大半を埋めた。
そして建物といえば大きく、無骨なほど四角く、窓の少ないものばかりだった。
生きた街の匂いがしない。
真っ暗な空に、人工の星が赤く青く点滅しては、その奥にある巨大な建物のひっそりとした影を浮かび上がらせる。
等間隔に並んだ外灯が次々と近づき、車内を一瞬照らして遠ざかって行った。
今、どの道を進んでいるのか、香穂子はいまいちよく判っていない。
しかし巨大な吊り橋を渡り始めて、ようやく朧気ながら理解した。
湾岸を東西に貫いた海の上にいるのだ。
遠くに観覧車を抱いた高層ビルのイルミネーションがまとまって輝いていた。
足元の黒い海が鏡となって光りを倍増させる。
仄暗い道路を走っていると、対岸の楽園を見つめているような気分になった。
手の届かない、彼岸の光り。
不思議な感覚だった。
二人きりの狭い車内に閉じこめられて、キラキラと輝く遠い街を眺めている。
会話は無い。吉羅は黙って運転している。
香穂子はハンドルを握る手を、じっと見ていた。
横顔を見る勇気はなくて、前を見るフリをして腕から先を見つめる。
ごつごつした手の甲と骨張った関節の、男の人の手だった。
膝の上で軽く握った己の手は、小さく頼りなく見える。
それとは比べようもなく大きくて、触れてみたらどんな感触がするだろうと思った。
急に切ないような心地に陥って、前を向く。
言いようのない気持ちが沸き上がって、先ほどから胸がつまったような、いっぱいに膨れたような心地に陥る。
この気持ちは何なのだろう。
どこから湧いて出てくるのか、不思議でならない。
涙が出そうなほど、胸を揺さぶられる。
長く長く、そしてあっという間に走り抜けた一時だった。
再び車は街中に戻り、喧噪とイルミネーションが周囲を埋める。
夢のような時間が終わってしまったかのように、見慣れた町並みが見えてきた。
「送って下さってありがとうございました」
「……ああ」
日野家の玄関先に車を止め、香穂子を下ろす。
吉羅は窓を開けて、挨拶に応じた。
「とても楽しかったです」
「それなら良かった」
「はい」
続く言葉が見付からなくて、香穂子は焦る。
引き留めたいと思う気持ちがあるのも本音だった。
けれど、いつまでもここに車を止めておくわけにもいかない。
結局脳裏に出てくるのは別れの言葉ばかりだ。一番相応しいものを選んで声に乗せる。
「────おやすみなさい」
「おやすみ」
吉羅は、微笑と共に返答した。
優しい笑顔だと気付いた時には、もう窓は閉められエンジン音が響き渡る。
今日は何度、心臓が止まりそうな心地に陥っただろうか。
角を曲がって見えなくなるまで、香穂子は走り去る車を見つめていた。
「それで、デートを満喫してきたわけだな!」
「もう、リリってば。デートじゃないって何度も言ってるじゃない」
人気のない放課後を狙ってリリが颯爽と現れる。
学院に登校すると、理事長よりも妖精と逢う回数が多いが、感覚が麻痺してる香穂子に今の所疑問はない。
理事室に行くと必ずリリが現れるが、こうして人気の無い森の広場もまたリリとの面会場所だった。
ヴァイオリンの練習場としても森の広場をよく利用しているし、遭遇率も上がる。
理事長本人に聞かれたくない場合は都合がいいが、リリに内緒話をしているという認識は無いのだろう。
例え「内緒だよ」と念を押しても、「判った」と言いながらぺらぺら喋ってしまいそうだ。
その点に関してのみ、リリへの信頼は薄い。
「またまた~、照れんでも良いのだぞ」
「照れてないよ! そう言うんじゃないの!」
「しかしだなぁ」
リリが神妙な顔をして、香穂子の肩先に乗る。
「そんな事言うと、吉羅暁彦が可哀相だぞ?」
「え?」
「今朝会った時、デートだと言っておったのだ。……ひょっとして吉羅暁彦の片想いなのか?」
「え、ちょっと、リリ?!」
思わず掴みかかるが、リリはするりと逃げる。
香穂子としては肩を掴んで揺さぶる程度のつもりでも、小さなリリにとっては襲いかかられるようなものだろう。
「危ないではないか!」と抗議され、香穂子はしゅんとなって「ごめん」と謝罪する。
「まぁ、良い。二人がラブラブと判れば満足なのだ。では、我が輩は暖かく若者の展望を見守るとしよう! さらばだ!」
好き勝手放言した後、リリが消える。
本当に、どこまで判っていてあの発言なのだろうか。
妖精の無邪気な発言に振り回されてるなぁと、香穂子は溜息をついた。
理事長室でもう一人、リリを無視しながらもその発言に振り回されている人物がいることを、まだ気付いていなかった。
【終わり】
Comment
時間軸としては「好きと言って~」の前になります。互いに意識してるのに、近付くことが出来ない二人。
初出:2009/10/24