言わないで今はまだ

ねぇ、まだもうちょっと待って
私の気持ちが追い付くまで


寮生活というのは予想以上に楽しくて、同時に制限も多い。
例えば風呂上がりにキッチンへ赴き冷たいコーヒー牛乳をぐいぐいっと飲み干すとか、ドライヤー替わりに扇風機を利用するとかそんな些細な事にストップが掛かる。
特段暑がりというわけでもないが、風呂から出たらタンクトップとホットパンツ常用だったのに、それもダメと幼馴染み兄弟のステレオ説教を喰らった。
とは言え、一ヶ月も住み着いてしまえば自ずと慣れてくるもので、寮則に背かない程度の自由と放恣を行使する。
ニアの持ち込んだ冷蔵庫もその一つで、単身者用の小さく古い形だが女子寮で利用するには十分だった。どこから手に入れたのか入手経路は今に至るも不明だが。
件のコーヒー牛乳や水やジュースやらを入れて冷やし、人目(この場合は男子の視線)を憚らずに振る舞える。
男子は上半身裸だったりして狡いと思うが、そう言うと如月兄弟から小一時間懇々と説教を喰らうだろうし、ニアには笑われるだろう。

かなではそっと溜息を吐いた。
冷蔵庫は大変有難いし便利だが、使う経緯は正直あまり納得していない。
現在もこうしてコンビニでペットボトルを買い込む。共用キッチンの食材は寮がまとめて購入し業者が搬入するものだが、個人が常用するものに関しては各自が補充する。個人が使う冷蔵庫なら尚更だ。
ビニール袋は重いし、外は相変わらずの灼熱地獄。
地元の夏だって暑いけれど、多すぎるほどの木立や清流が暑さを和らげてくれていたのだとつくづく実感する。
蝉も同じように鳴き喚くのに、聞く側の気持ち一つでこんなにも違う。
焼け付くような太陽を避けて木立の影に逃げ込めば、今度は蝉の大合唱が雨のように降ってきた。
汗を拭いながら、そう言えばミンミン蝉からツクツクホウシに変わってるなぁと耳を峙てる。
夏が終わろうとしているのだ。
目の前には新学期が迫りつつあり、賑やかな寮も静かになってしまうだろう。

再び、溜息が洩れた。
寮までの帰り道に目をやると、何の変哲もない鉄筋の住宅街が蜃気楼のように揺れる。
コンクリートの照り返しで世界が白く焼け付く。
ビニール袋を持ち上げ、気合いを入れ直す。
あと少しの距離なのだからこんな所でへばっていられない。
そして帰り着いた暁には取っておいたアイスを食すのだ。
ちゃんと名前を記入して「食べるな」の注意書きも貼り付けた。ハーゲンダッツは値段も高く寮内の人気も段違いで、油断しているとイナゴに食い尽くされた畑のような有様に成り果てる。
食べ物の恨みは根深いのだ。寮生活の大変さはこんな所にも現れる。

帰ったらアイス、を心に念じて一歩踏み出す。
途端に頭頂部がじりじりと焼けた。帽子でも被ってくれば良かったと思うほど陽射しは容赦ない。
暫くは建物の影も見当たらず、このまま太陽の餌食だ。
ビニールが手に食い込んで痛い。
中でボトルがごそごそ動き回っては互いにぶつかり合い、手に掛かる負担は倍増される。
欲張って二リットルなんて買うんじゃなかったなぁと後悔はもう何度目だろう。
自然と視線は下を向き、俯きがちになっていた。
前を見ていると距離ばかり見て取れてちっとも先に進んだように感じない。
だったら、一歩一歩を進む足元を見ていた方がまだ気分的に楽だった。
だから気付くのが遅れた。こちらに気付いて近付いてくる人影に。

「おい、小日向?」
突然名を呼ばれて心底驚いた。びくりと肩を震わせ、顔を上げる。
この状況を蜃気楼かと疑いたくなるほどのタイミングだった。
「何やってんだお前」
小走りに近寄ってきた東金千秋からは爽やかで上品な香りが漂ってくる。
常に華やかで隙が無い人だ。
汗だくになりながらコンビニ袋を抱える自分が急に恥ずかしくなって肩を縮めた。

「あ、はい。女子寮の冷蔵庫の飲み物が切れてたから買い出しに……」
「そういう事は先に俺に言え。買い出しでも何でも付き合ってやるのに」
「は、はい」
付き合うという単語に反応してしまって、慌てて俯く。
「ほら、貸せ」
「え?」
「俺が持つってんだよ」
「あ、ありがとうございます」
強引な手つきでビニール袋を奪われた。
状況に付いていけず舌は凝り固まって噛んでしまいそうだった。

「じゃ、戻ろうぜ。こんな厚さじゃ熱射病にでもなりそうだ」
かなでを促す空いた左手が自然な仕草でかなでの右手を取った。
「え?」
「何だよ」
慌てて手を引いてしまったかなでを東金は少し拗ねたように睨む。
「あの、だって私、汗かいてるし、その……」
「関係ねぇだろ。俺だって汗くらいかいてるぜ」
「……熱くて鬱陶しいとか思わない?」
「思ってたら最初からそんな事しないだろ。────それとも嫌なのか?」
「う、ううん、そんな事ないです」
「ならいいだろ、ほら」
差し出された手に、少し照れたような赤い顔と優しい笑み。
全国学生音楽コンクールで優勝した夜から、彼はそんな顔をかなでに向けるようになった。
恥ずかしくて直視出来ない。
ゆるゆると視線をその手に移すと、男の人らしい骨張った指に自分の指を重ねた。
指先だけ絡めて軽く握り、歩き出す。
それだけなのに全身が熱く火照った。
太陽に焼かれる暑さとは異なるそれに頭の中まで浸食されるようだ。
真っ白に焼き付いて何も考えられなくなる。

「……かなで」
「えっ? な、何ですか?」
低く艶やかな声が唐突に名前を呼んだ。思わず素っ頓狂な声が出る。
その様子がおかしかったのか、東金はふっと笑い出した。
「もう、何なんですか~」
「いや、悪い。お前の反応が一々初々しくてな」
「だって!」
こんなの慣れてないのだ。
恋人のキスをしてくれと囁かれて、微かに触れる程度にしか出来なかったけれどそれがファーストキスだったのだ。
夢のような一夜だった。多分、正気だったらあんな事できない。優勝して舞い上がっていたことだけは確かだ。
しかし朝が来れば日常が目を覚ます。一夜の夢など露と消え、思い出さえ残さないかのように。
魔法の解かれたシンデレラがガラスの靴も落とさずに帰宅してしまった気分だ。
東金を目の前にしても顔を直視出来ず、意識的に二人きりになることを避けていた。けれど寮内に居る彼を遠くから観察してみれば普段と何も変わらない。
自分だけがこんなに舞い上がって慌てているのかと思うと恥ずかしいし、悔しくなる。
けれど、そうこうしている間にも別れは差し迫っていた。

今朝は至誠館高等学校吹奏楽部の面々が仙台に帰っていった。
短い間ながら共に切磋琢磨したメンバーとの別れはとても辛く、メールする約束を何度も交わしていた。
賑やかな彼らが居なくなると、菩提樹寮は突然照明を落としたかのように静まりかえる。
それに耐えられなくなってふらりとコンビニに出て行った。ジュースの買い出しを口実に。
立ち止まって俯いてしまったかなでを東金が見つめている。
視線を感じながら、かなでは顔を上げることができない。

「悪い。からかうつもりじゃなかった」
真剣な声音が降ってくる。

ああ、拙い。このままでは。
避けていた一線に触れてしまう。

かなでは顔を上げて笑顔を作った。
「ううん、そんな真面目に謝らないで下さい。さ、寮に戻りましょう」
「かなで」
そんな声で名前を呼ばないで。
そんな目で私を見ないで。

眩しくて目を開いていられない。ぎゅっと瞑って耐える。
どきどきと体内で心臓が大きく鳴っていた。
耳を塞いでしまいたいのに、手は東金が捕らえている。

「俺を見ろ。俺だけ、他の誰も視界に入れるな」
「東金さん……」
「明日、俺たちは神戸に帰る。だからそれまでは俺の側を離れんじゃねぇよ。一分一秒だって惜しいんだ」
「わ、私もです。でも」

まだ追いつけない。
熱すぎるのは今繋いでいる手だけじゃない。
言葉も視線も存在全てがかなでを焼き焦がしてしまう。
その熱量に戦いて、同じ土俵に立てないでいる。
無意識に逃げて避けて問題を先送りにした。
その恐怖の正体はもう分かっている。
溢れんばかりの情熱を注ぎ混んでくれる目の前の人。
そして、それを受け止めきれずに持て余し、胸に宿りつつある感情にさえ戸惑っている自分自身だ。

「今が楽しくて、東金さんに言われた言葉一つ一つが宝石みたいで、嬉しくて、なのに」
喉が震えた。
上手く声が出ない。
伝えたい想いが多すぎて言葉が追い付かない。
願いをこめて東金の顔を見上げる。少しでも気持ちを知ってほしくて。
「それがあと少しでお別れになってしまうのが怖くて寂しくて、考えたくなかったんだと思うんです。だから、ごめんなさい」
世界がゆらりと揺れて喉の奥が詰まった。
苦しくて息も出来ない。

「……ったく、お前は」
焦れたように東金が動いた。
腕を掴まれて引き寄せられる。
繋いでいた手はとっくに放されていて、そんな事にも気付けなかった。
がっちりと肩を押さえられて身動きも取れない。
片腕だけでこんなにすっぽりと胸に納まってしまうなんて。
もうこれじゃ逃げられない。

「俺の完敗だ。そんな顔されたら何も出来ない。────全く、この俺をフるなんざ、相当だ」
「そ、そんな、私フってなんて」
「バカ。お前の気持ちは判ってる。でも俺はかなり本気でお前をかっさらって行きたかったんだぜ」
「東金さん……」
「だから泣くな。お前のそんな顔、見たく無ぇよ」
俺のヴァイオリンで泣くなら大歓迎だけどな。
一言多いのはもうこの人の性質なんだろう。
かなでは笑って目元を拭った。

「はい、あとで聞かせて下さい」
「リクエストがあるなら何でも聞くぜ」
「え、急に言われても」
「それじゃ、寮に着くまで考えておけ」
「えー、すぐ着いちゃうじゃないですか」

手を繋いで寮へと向かう。
寮を出た時とはまるで異なる気持ちで青空を仰いだ。


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東金Side

初出:2010/03/21

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