好き、だけど伝わらない
二人の距離がもどかしくて
人間の思考は全て大脳が司り、主に意識は大脳皮質を巡るものなのに、どうして心ってやつは心臓を指すのかずっと不思議だった。
心臓は全身に血液を送り出すポンプの役割を果たし、それを命じるのは脳の役目だ。独自の判断で動くわけがないし、まして感情を生み出しているわけでもない。
精神状態によって鼓動が早くなることはある。緊張などがいい例で、それも全て脳内神経伝達物質の影響による身体の反応だ。
指を軽く握って開いてみるのも脳から指令を受けた結果であり、感情も行動も人が人である全てを脳が支配する。
しかし万能に見える脳も間違いを犯す。誤作動を起こして情報を取り違え、勘違いする。
その最たるものが恋愛だと思っていた。
恋なんてものは大概、神経伝達物質の過剰分泌による錯誤だ。判断を狂わされ、惑わされて虜になる。
脳内ホルモンにはアッパー・ダウナー問わず薬物の成分と同じものがあるだけに、誤作動の末に正しい思考能力など容易く損なわれてしまうだろう。
人間が人間らしくあるための要素の一つであり人間の繁栄には不可欠なものだと言っても、歴史上には情愛によって国を傾けた一国の主さえ存在し、愚行が記されている。
古人は戒めの言を大量に残しているが、恋については諸説紛々だ。
素晴らしいものだと説く者がいる反面、恋なんてするもんじゃないと警告する。
「恋とは、我々の魂の最も純粋な部分が未知のものに向かって抱く聖なる憧れである」と著したのはフランスの女流作家ジョルジュ・サンドだ(世界で愛に関する言葉の種類が最も多いと言われる国の作家なだけある)。
要はバランスなんだろうと榊大地は結論を出していた。
何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、だ。薬も過ぎれば毒となる。
のめり込むほど熱中しないよう予防線を張り、相手に不審を抱かせない程度に距離を置いて頭の片隅は常に冷静、判断力は残しておく。
「恋愛においては、恋したふりをするひとのほうが本当に恋している人よりもずっとうまく成功する」とはニノン・ド・ランクロの言で、美貌の高級娼婦の何とも自己啓発的な台詞だ。
真に受けたわけではないが、恋に本気になれないのも事実だった。
もしかして自分はそこまで情熱的な人間ではないのかもしれないと自嘲もする。
そういう相手と巡り会っていないだけなのかもしれないが、現状を鑑みるに恋愛に向いてないように思えた。
人間の根元的な感情の両面を目の当たりにして怖れすら抱く。
物事には表と裏の二面がセットになっていることがあって、光に照らされた足元へ影が落ちるように、表の見栄えが綺麗な分だけ裏が薄汚れているなんてよくある話だ。
それもこれも、本気でなければ傷も浅くて済む。
自分の経験則と友人知人の恋愛話を聞いて得た結論だった。
しかし物事は計算通りに動かないのもまた定石だと、深く深く溜息を吐く。
何も自分が思う理想の通りに生きていけるなんて根っから信じられるほど子供でもないし、かと言って全てに達観できるほど大人でもないのだから、傍目から見れば恋愛の全てを判った気になっていた青臭いガキでしかないのだろう。
判ったつもりでいたのだと思い知らされる。
それはここ一月の間ずっと側にいた女の子が、ただ可愛い後輩というだけの存在で括れないと知った時。
自分の級友である男に告白される場面を目撃して体中が発火するかと思うほど熱を持った感覚を味わった時。
腸が煮えくりかえるという慣用句を体感して、心臓が切り裂かれるような痛みを知覚して、今まで築き上げた全てが崩れ去った。
シナプスの不全、神経伝達物質の過剰反応、脳の誤作動。そんなものを疑っている間にも、感情は強く訴える。
彼女が、小日向かなでが他の男を見るなんて、他の男の物になるなんてそんなのは嫌だと。
まるで子供が欲しいものを強請って駄々をこねるようなものだと判っているのに止められない。
最低限の理性で貼り付けた「物わかりが良く面倒見のいい先輩」面をして二人の前に立ち塞がるけれど、級友の反撃は的確に急所を突いた。悟らせずにいられたのは辛うじて作り上げた仮面が思いの外強固でいてくれたからだ。飄々とした態度のいつもの「榊大地」という面。
今は諦めて立ち去ってくれた事だけが唯一の救いと判っているけれど、それも問題を先延ばしにした応急手当に過ぎない。
この先、彼女に言い寄る男なんていくらでも出てくるだろう。彼女が誰かと付き合いでもしない限りは。
その相手が自分ならいいと、自分でありたいと思う気持ちが言葉となって口から溢れてしまう。
最後の言葉だけは出なかった。出すべきではないと理性が強く求めたからだ。
「ごめん」と謝意を述べ、事は収束に向かう。
彼女は赤い頬をして困ったような、何かを言いいたそうな顔をしたまま屋上を去った。
本音は全て穴を掘って埋める。上に日常という土を被せて平静を装う。
そこから葦が生えて「王様の耳はロバの耳」などと風に囁かない限りは普段通りの先輩と後輩のままで、周囲にも違和感を感じさせない。
それくらいの理性は持ち合わせていて、尚かつ表情を取り繕うのは得意中の得意だ。
何でもないフリくらい幾らでも出来る。
しかしそれは大地の問題で、解決には程遠い。
穴から生えた葦の正体は彼女自身なのだろう。埋められた秘密を告発する真っ正直な存在。
それは楽譜を手渡す時に触れそうになった指先や、提案があると言うのでその手元を覗き込んだ時の接触で如実に現れる。
真っ赤な顔をして固まった数秒後、大袈裟なほど身を引く様子などは見ている大地の胸がちくりと痛むほどだ。
周囲もそんなかなでの過剰反応に気付いた様子で、響也が「どうした?」などと声を掛けてきた。
「べ、べつに何でもないよ」
慌てて弁解する態度が既に「何かあった」と自白しているのに彼女は気付いていないだろう。
響也の手が伸びて、無遠慮にかなでの額に当てられた。
「熱でもあんのか? お前、顔赤いぜ」
「な、無いってば熱なんて! 大丈夫だよ」
「ホントか? 暑いからって腹出して寝てたんじゃねーの」
「響也と違って寝相悪くないもん」
「んだと、コラ!」
体調の話から大いに脱線して子供の口喧嘩に成り下がったやりとりを律が溜息吐いて仲裁した。
「二人ともそこまで。小日向、本当に熱は無いんだな?」
「うん、大丈夫」
かなでは握りこぶしを振って「元気!」とジェスチャーする。
それを確認し、律が少しだけ表情を緩めた。直ぐに部長の顔に戻り、全員を見渡す。
「練習を続けるぞ」
幼馴染み三人の掛け合いは最早アンサンブル名物となっている。
少し前は律の生真面目さにハルが便乗して大地の奔放さを諫めるパターンだった。
それがやけに懐かしく遠く思えるほど、かなでと響也の存在はオケ部に深く根付いたという事なのだろう。
それを喜ばしいと思っていたはずだった。
気付かなくていいことに気付いてしまうと、全てを白紙に戻すことなど出来なくなる。
胸の中に何かが詰まったような息苦しさが消えてくれない。
それはこんな風に少し距離を置いてかなでを見つめる時に襲ってくる感覚だった。
つい昨日までならきっと「やれやれ仕方ないな」なんて言って笑っていられた。
面白がってちょっかい出すこともあったし、場合によって諫める側にも嗾ける側にも立てた。
何でもない軽口を叩いてその頭や肩に触れていた。
そんな部活動の先輩後輩として行き過ぎない程度のスキンシップ、頭を撫でたり肩に手を回すと言った諸々を、今はどうしたら出来るのかさっぱり思い出せない。
変化は唐突で、何でもない日常の天地が逆さまになってしまったかのような気分だ。目に見える景色の色さえ変わってしまった。
調弦の具合を確かめつつヴァイオリンを軽く弾いていたかなでと不意に視線が合う。
大地がかなでを見つめていたのだから、かなでの目が大地に向けば合うのは当然なのに軽く狼狽える。
迷う間も無く条件反射のように笑みを作った。
何かを伝えたかったわけではない。いつもならきっとそうして微笑を向け、後輩を励ましたりしていた筈だった。
かなでの口元が動いた。少し強張った半月の形は確かに笑みなのに、その目はまるで迷子になった子供のように頼りないものだった。
落ち着かないように視線がふわふわと揺れ、大地から逃れようとする。
大地が譜面を見るふりで目線を下げると、かなでは明らかにほっとしたようにヴァイオリンを構え直した。
脳裏に沸き上がったものは相反する二種類の感情だ。視線が外れたことによる安堵と、寂寥。
真っ直ぐな目で見つめられたら平静でいられない。
なのに強張った彼女の顔を目の当たりにして、胸がずきりと痛む。心臓の辺りが確かに痛みを発した。
その視線に特別な意味があったわけじゃないと言い訳だけがぐるぐると脳裏を巡って、行き場の無いまま消え失せる。
少し前までなら本当に意味なんて無いと信じてもらえただろう。
今となってはもう手遅れだ。
彼女を見ていたいと思う、その視線に含まれる気持ちはもう誤魔化せなくなっている。
言い訳を重ねた所で無駄だろう。そんなもの、本心ではないのだから。
ああ、だから恋なんて嫌なんだ。
本気になったら傷付く。それは自らだけでなく、他人をも巻き込む。
誰一人無傷というわけにはいかなくなる。
戸惑うかなでの横顔から無理矢理視線を剥がした。
未だ心拍が通常より早く、平素からほど遠い。
何度かの深呼吸で気持ちのスイッチを切り替えた。
今はまだ心の整理なんて追い付かないけれど、楽曲を完成させる目標だけは達したいと思った。
【続く】
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「恋する運命にある者は誰でもひと目で恋をする」by シェークスピア
初出:2010/04/25