胸の痛みを知った夜

どうか振り向いてとその背中に願う


パタンと閉じた携帯電話を両手に握り締め、顎の下に置いて思案する。
思い切ってもう一度開けば、ぱっと明るく光るディスプレイに閉じ損ねたメールが見えた。
読んでいると胸がぎゅっと締め付けられる。じっとしているのが苦痛になるほど居たたまれなくなって、携帯をぎゅっと胸元に押し付けた。
送り主は榊大地で、後輩である小日向かなでに対し練習を共にしようというお誘いメールだった。
つい先日までなら喜んで誘いに応じていた。特筆すべき感慨もなく、ただ練習できる悦びと楽しさを感じた。
今となってはその時の心境や状況をうまく思い出せない。
なぜ、二人きりになって何も感じずに居られたのだろうか。
何も考えずに笑っていられたはずなのに。

1stヴァイオリンとは認められないとはっきり告げられても、大地に対する信頼は揺るがなかった。
寧ろ、飄々とした態度の先輩がじつは恐ろしく冷静に周囲を観察していたことに驚く。一見するといい加減だったり口が軽かったりするのに、音楽に対する熱意や造詣は誰より深い。
だからこそ、信頼される弾き手になろうと藻掻いた。
大地に1stとして認められた時は本当に嬉しくて、誇らしかった。
思い返せばいつも側に大地が居て、かなでを見守っていた。それこそ、転入早々にオーケストラ部に飛び込んだ時から。
部員と仲良くなれたのも彼のおかげで、何かと面倒を見てくれた。
可愛いと頭を撫でられることは日常茶飯事で、だから優しい兄のような存在と認識していた。
幼馴染みの律とはまた別の優しさと厳しさだった。兄が二人に増えたようで、くすぐったいような気恥ずかしいような心地と同時にとても嬉しいと感じていた。

それが変化してしまったのは、確実にあの日だ。
岡本と名乗った普通科の先輩から告白されたあの昼下がり。
驚きと混乱で凝り固まって何も言えなかったかなでを庇うように大地が現れた。
あの時からはっきりと関係性が変化してしまった。
兄と妹。先輩と後輩。アンサンブルの仲間。二人を当てはめて形作られていた屋台骨が突然崩壊する。
それも自分ばかりが一方的に。
あの日、大地の口は滑らかさを失っていた。本音を語る低い声。初めて見る苦汁の顔。かなでを見つめる熱を帯びた視線。
何もかもがかなでの知らない感情を指し示していて、驚く他にない。

恋とか愛とか、ぼんやりとした憧れならかなでの中にもあった。
少女漫画やドラマや映画を観て楽しみ、夢見ることは普通にあった。しかし、フィクションと現実はあまりに解離しているように思えたし、身近に具体例も無く、恋は淡く朧気な蜃気楼のようなものだった。
はっきりと告白されたことなんて今の今まで無かったし、これからも有るなんて想像したこともなかった。
だから、正直どうしていいのか判らない。

普通に考えて、好きなら好きと返事するべきだろうし、その気が無いならはっきり断るべきなんだろう。
岡本はよく知らない人なので、付き合ってくれと言われても頷けない。
けれど大地は。
身近な先輩で優しい兄と思って慕っていただけに、断るという選択肢が思い浮かばない。
本音としては「先輩」で「兄」に戻ってほしい。
そんなかなでの願いを聞き届けたのか、本人が宣言したように頭を冷やしたのか、大地の態度は告白騒動の前と何一つ変わらないものに戻っていた。
すると今度はかなでの態度が戻らない。
どうしても大地を意識する。
軽口と本気が判らなくて混乱する。
些細な接触にびくりと身体が強張り、目を合わせることが難しくなる。
真っ直ぐ顔を見ることに躊躇いを覚える。

だって、もう知ってしまった。
あの優しい眼差しの奥にある情熱。それがどういう種類のものかを。
かなでを単なる後輩とは見てないと断言していた。
大地が軽口を叩いて冗談を言っても、裏側にその気持ちがあるのかと思うと素直に笑えない。
特に、「ひなちゃんは可愛い」とか「独り占めさせて」なんて種類のジョークは。
手の中の携帯を再び見つめる。かなでを練習に誘う文言は以前から口癖のようなものだ。
つい数日前なら笑って受け入れただろう。その台詞にしたって、いつもの冗談と気に留めなかった。
今は心臓をぎゅっとつかみ取られたような痛みを感じる。

どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
ぐるぐると悩み迷ううちにも時間は刻々と過ぎていく。
返事を出すべきなのは判っているのに、送信ボタンを押せないでいる。
先輩と練習するのは嬉しいし、とても楽しい。
けれど今の精神状態で二人きりは避けたい。
優しい先輩の厚意を無下にできない。
はっきりとした態度を取れずにいる状態が辛い。
胸が苦しい。

ぎゅっと目を瞑り、胃が締め付けられるような不快感をやり過ごす。ドキドキと心臓が高鳴り、それが耳の奥で強く響いていた。
震える指を押さえて断りと謝罪のメールを打つ。送信ボタンを思い切って押した後は、携帯を閉じてカバンの奥に仕舞い込んだ。


午後の練習は一人でしていた。外界を拒絶し、練習室に立てこもる。
胸の痛みを振り切るように譜面と対峙し、音楽に没頭した。そうしていると時間を忘れ、日常の出来事を頭から追い出すことができる。安らぎの一時でもあった。
けれど、それも何れ終わりがやって来る。窓から赤く染まった日が差し込み、下校時刻が迫っていた。慌てて荷物をまとめ、教師に「練習もほどほどにな」とからかわれながら門をくぐる。
菩提樹寮に辿り着いた時にはもうすっかり日が落ちていた。
練習にのめり込みすぎたのだろうか。どっと疲れが押し寄せ、今すぐにでもシャワーを浴びて寝てしまいたい気分だった。

「遅かったな」
「あ、ニア」
神出鬼没の友人が、めずらしくラウンジのソファに足を組んで座り、雑誌を眺めていた。誰かと居るより一人気侭を好む傾向がある彼女は、滅多にここへ出てこない。
食堂もラウンジも全てが静まりかえっている。
「あれ?」
思わずきょろきょろと周囲を見回すと、ニアが面白そうに笑った。
「なんだ、ひょっとして知らないのか?」
「え? 何が?」
「今夜、瑞島神社で祭があるんだ。皆そこに遊びに行ってるのさ」
「あ……あああ! そういえば!」
祭があるとハルや大地から聞いていたはずだ。それをすっかり忘れていた。
「誰もお前を誘わなかったのか?」
「えーと、遊びにおいでとは言われてたけど……なんていうか、練習に没頭してて。アンサンブルの練習でもそんな話にならなかったし」
「全く、この寮の男どもは情けないな。今がチャンスだったろうに」
「チャンス? 何が?」
ニアの言葉が理解出来ずに聞き返すと、ニアは何でもないと笑った。
「そうだ、どうせなら私と行かないか? 偶には女同士も悪くないだろ」
「わ、嬉しい! 行く行く!」
「そんなに喜んでくれるとは光栄だな。それじゃ、祭らしく浴衣に着替えるか」
「え、あるの?」
「ああ、とっておきがある。男共を驚かせてやろう」
含みのある笑みを浮かべた友人は、悪戯を企む子供のようだった。


疲れがすっかり吹き飛ぶ気分だった。
ニアの部屋で浴衣を広げ、ああでもないこうでもないと討論しながら戦闘準備に取りかかる。
結果、ニアは藍色に染められた落ち着いた柄で、かなでは薄い青に小さな花の散った柄。
着物の着付けは経験があるし、浴衣も何度か着たことがあった。互いの着付けを手伝い、交互に帯を締めて仕上げる。
薄く化粧も施した。髪型も普段と異なり、アップにまとめた。
「うん、見違えるようだ。小日向は和装も似合うな」
「そう? ニアも大人っぽくて素敵だよ!」
「ありがとう。それじゃ、行くか」
「あ、待って」
からころとはき慣れない下駄が音を立てる。
神社に近付いていくと、周囲は同じように着飾った女性たちが増えていく。
かなでは何となく頭の後ろに手をやった。
髪型が崩れていないか、何度も鏡でチェックしたのに気になってしまう。

「わ、美味しそうな匂い! どうしよう、どこから食べよう?」
鳥居を潜って参道を埋め尽くす屋台を見た途端、かなでの目がきらきらと輝きだす。
ニアが呆れたように溜め息をつく。
「なんだ、結局は色気より食い気か」
「ええー、だって美味しそうだよ、ほら、炭水化物のにおいがする」
「そうだな、とりあえず焼きそばでも食べようか」
「お好み焼きもいいね」
「たこ焼きもあるな」
「うーん、迷っちゃうね」
何を食べるか大いに悩み足を止めた所で、横合いから野太い声がかかった。
「そこの浴衣のべっぴんさんたち、ウチの焼き鳥は絶品だよ」
判りやすい呼び込みだったが、二人は顔を見合わせて笑う。
「おじさん、お上手ですね~」
「それじゃ、それ戴こうかな」
「ありがとよ、お嬢ちゃんたち」
次にじゃがバターの列に並び、大判焼きを片っ端から買い込んだ。
腹ごなしが済んだら、華やかな色に目を奪われる。
「あ、ヨーヨー釣り」
「水風船か。やっていくか?」
「うん、やってみる」
小さなプールにぷかぷか浮かぶ色とりどりの風船の中から、ト音記号が散りばめられた赤い風船を釣り上げた。
「それを釣ると思ったよ」
「えへへへ」
少し照れ臭くて笑うと、ニアも承知してるとばかりに微笑む。

暫く夜店を素見して進んでいると拝殿に近付いた。
社務所前に立てられた白い業務用テントの側に、見知った面々の固まりが見える。
「あれ! かなでちゃん!」
その中からかなでに気付いた水嶋新が飛び上がって手を振った。
「新くん! すごい、宮司さんみたい」
「えへへ、似合う? カッコイイ?」
「うん、カッコイイ!」
「かなでちゃんこそ、浴衣姿すっごく可愛い!」
和装の新とかなではハイタッチでぱちんと手を合わせ、互いを誉める。
「こんばんは、小日向さん」
八木沢が穏やかに微笑みかけ、その後ろで火積が不器用に会釈した。かなでが応えて笑顔を向ける。
「こんばんは、皆さんも来てたんですね」
「ええ、水嶋が勧めるもので。息抜きにもちょうどいいですし」
「だって、絶対楽しいもん、行かなきゃ損でしょ!」
新は胸を張って断言する。
それを受けて狩野が笑った。
「上手いもん一杯食えるしな!」
「あの、牛串を買ってきてもいいですか?」
「お前、あれだけ食い尽くしてまだ食うのかよ!」
伊織がおずおずと申し出て狩野がつっこみ、どっと笑いが巻き起こる。
「よし、それじゃ、この夜の記念に写真撮ろうか」
「わ、用意がいいね」
ニアがカメラを取り出し、巾着にそんなものを忍ばせていたとはまるで気づかなかったかなでは感心している。
「報道部の必須アイテムだからな。……それじゃ、そこの柱に皆固まってくれ」
「いや、俺は……」
「夏の思い出ってことだし、参加しよう?」
「せっかくのお誘いを断るのも悪いよ」
火積が若干及び腰になっているが、八木沢や伊織に促されて渋々後に続く。
「オレ、かなでちゃんとツーショットがいい!」
「それは後でにしろよ」
次に異を唱えたのは新で、狩野にたしなめられる。
「あとで一緒に撮ろ」
「うん!」
ぷうと頬を膨らませて拗ねていた新だが、かなでが声をかけた途端水を得た魚のように飛び跳ねた。
それぞれの悶着も一段落し、皆が一塊りに集合する。
「それじゃ、タイマーつけるからな」
拝殿の階段の隅にカメラを置いて、ニアが戻ってきた。かなでの隣に並び、その周囲を狩野・伊織・火積・八木沢・新がピースサインを作って取り囲む。
カメラの点滅が早くなり、パシャリとフラッシュが焚かれた。
背面のディスプレイを確認してニアが微笑む。
「うん、いい出来だ」
「そういえば、綺麗に着飾ってるけど二人は写真撮った?」
「ううん、お祭り行ことばっかり気にして撮ってなかったよ」
「それじゃ、オレが撮ってあげる!」
伊織の質問にかなでが答え、新が「はいはいはい!」と勢いよく挙手する。
仕方ないと苦笑してニアがカメラを預け、かなでと並んでポーズをとった。
ピースサインを作りフラッシュを浴びながら、かなでの目はどこか遠くを見ていた。
新の背後に夜店と提灯がきらきらと光り輝いている。
どうしてだろう。どこか切ないような気がして、ふと目元を押さえた。


「ねぇねぇ、かなでちゃん」
ニアと狩野らがディスプレイを確認してあれやこれやと意見する間に、新はかなでの隣に並んで顔を覗き込む。
「お守り買った?」
「お守り? ううん、まだだよ」
唐突な話題に小首をかしげると、新が腕を広げて力説する。
「瑞島神社のお守りは抜群に効くんだよ! 御利益ばっちり! せっかくだから優勝祈願、どうかな?」
「そうなの? それはちょっと欲しいかも」
「でしょでしょ! あっちで売ってるよ」
「そっか、それじゃ、ちょっと買ってくるね」
ニアや八木沢にも一言伝え、かなでは輪から抜け出した。一緒に行こうと新の申し出は断った。
拝殿の賽銭箱へと通じる階段の隣に、納札所と続きになっているお守り売り場がある。
社務所からそう遠くないが、ひっきりなしに人が行き交う参道を跨いでいるので通るのも一苦労だった。
やっとの思いで参道を過ぎた。しかし目線の先にある納札所を確認して呆然と立ち尽くす。
売り場には大地が居た。神職用の和装をきっちり着こなし、周囲の誰よりそれが様になっていた。
周囲には女性ばかりが集い、黄色い歓声が上がる。
「ほら、やっぱり大地先輩!」
「カッコイイ……!」
かなでのすぐ隣からも悲鳴のような声が漏れ出て思わず振り返る。
雑踏に紛れて気にも留めていなかったが、側に居た二人組はどうやら星奏生だったらしい。顔に見覚えはないから普通科なのだろう。彼女らは小走りに売り場へ入り、女性達の輪に突っ込んでいった。
大地はどんな相手だろうとにこやかに応対する。嫌な顔一つしない。
それどころか談笑しつつお守りを売りさばいていく。鮮やかすぎるほどの手並みだった。
縫い止められたように足が動かない。
心臓のあたりがぎゅっと痛んだ。それは今まで感じた中で一番の痛みだった。

自分から練習を断っておいて、なんて身勝手だろう。
大地は優しい。そんな事は最初から知ってる。
なのに、その優しさをねじ曲げて受け取り、一人で右往左往している。なんて愚かなのだろう。
喉の奥に熱い物が込み上げてきて、ぐっと息を飲み込んで押さえつける。
こめかみに力を入れて震えそうになる目元を押さえた。
ここで泣いたってどうしようもない。判ってる。
目を合わせたくなくて、慌てて後ろを向いた。
気付かれないことを祈り、逸る気持ちを抑えて歩を進める。参道はでこぼこしていて、下駄では歩きにくい。油断していると足を取られる。
楽しそうな女性客と大地の会話に耳を塞ぎたい衝動を堪えるのに必死だった。

テントに戻ると撮影会はまだ続いていた。
「よし、それじゃ、もっと変顔しようぜ」
狩野と伊織、新の三人が頬をつまんだり押しつぶしたりして顔を変形させ、ニアがおもしろがってシャッターを押す。
灯籠に照らし出された楽しげな雰囲気に、胸にわき上がってきたのは安堵だった。次に罪悪感に似た苦い感覚が胸の端をチリチリと焦がした。
今の今まで呼吸を忘れていたように、深呼吸する。
湿気と熱気を孕んだ空気は重く、胸を押しつぶすような気がした。
そんなかなでの様子に気づいたのは撮影会から一歩離れていた火積だ。
「……あんた、どうした?」
「あ、いえ。何でもないです」
慌てて笑顔を作る。
撮影に夢中になっていた面子もかなでの帰還に気づき、側に近寄ってきた。
「かなでちゃん、お守り買えた?」
楽しそうな新には笑顔だけを返して、ニアの傍らに寄って小さく袖を掴んだ。
心得たようにニアは雑談を切り上げて別離を口にする。
「私たちはこれから行く所があるから」
「えー、そなの? かなでちゃんと一緒に回りたかったのにぃ!」
「てめぇは仕事があんだろ」
新が残念そうに声を上げ、火積に頭を小突かれる。
「そうだよ。彼女たちだって予定があるんだから、邪魔したらいけないよ」
「また寮で会えるじゃない」
八木沢が優しく新を宥め、伊織がそれに続けた。頭を抱えて意気消沈していた新の顔に笑顔が戻る。
「そっか、そうだよね」
「それじゃ」
「またな。良い夜を」
「うん、またねー」
挨拶を交わし名残惜しい気持ちのまま手を振って、至誠館の輪から離れた。

しばらく歩いた後、ニアが横目でかなでの顔を確認する。
「どうした────と、聞くまでもないな、その顔は」
「そうかな……」
「お前は思ったことがすぐに顔に出るから」
頬を両手で押さえるとニアは「ムンクの叫びみたいだぞ」と笑う。
「ちょっと、そこの狛犬の所で待っていてくれ。私もお守りを買ってくるから」
「え、そうなの? だったら私が」
「いいから。ちょっと待っていろ。いいな」
有無を言わさずかなでを残し、ニアは足早に去っていった。

落ち着かない気分だ。
ニアは勘が良い。売り場の様子を見て何かを察知するに違いない。
けれど、待っていろと言われたからには動くこともできない。
溜め息をついた。
いい加減歩き回って疲れた。はき慣れない下駄のせいだろう。鼻緒が擦れて足の指が赤くなっている。
手から吊した水風船をぱしゃぱしゃと突いてみた。
涼しげな音と感触が心地良くて、つい童心に返る。
名前を呼ばれてもすぐには反応できなかった。
────小日向さん?」
「……?」
「ああ、やっぱりそうだ!」
にこやかに話しかけてくるのは、先日かなでに告白してきた岡本だ。
一瞬、この人は誰だろう?と思った。それくらい相手の印象は薄く、にこやかな顔と親しげな態度でようやく名前と顔が一致した。
「え……と、岡本先輩」
「覚えててくれたんだ。嬉しいな! こんなところで会えるし、可愛い浴衣姿見られたし、俺ってラッキー!」
岡本は右手に綿飴とリンゴ飴、左手に焼きそばとたこ焼きを抱えて飛び上がる。心底嬉しそうな様子に、申し訳ないような気分だった。
かなでの様子に気付かないのか、岡本は無遠慮に近寄る。
「ねぇ、この後なんか予定ある? ちょっと調子こいて食べ物買いすぎちゃってさー。よければ消費するの手伝ってほしいんだけど。あ、もちろん、全部ただで……」
ぺらぺらと潤滑油を差されたように舌を回転させ、かなでに気をとられていた岡本は背後の人波など頭から一時的に消去していた。
対して、かなでの視界は行き交う人の波が見えている。岡本の背後で恰幅のいい男性が談笑しながら横切り、そちらも話に熱中するあまり岡本を失念した様子でぶつかる様を逐一目撃していた。
「あっ……」
「うわっ」
警戒を怠っていた岡本は突然背後から押されてバランスを崩す。かなでも思わず手を伸ばそうとした。
プラスチック容器から溢れそうに盛られた焼きそばやたこ焼きが雪崩を打ってこぼれ落ちようとしている。
しかし、かなでの二の腕をつかむ手が横合いから入り込み、その場から引き離された。
「きゃっ」
思わぬ力に翻弄され、かなではぎゅっと目を瞑った。後頭部に何かがぶつかる。
「大丈夫? ひなちゃん」
頭の上から降ってきたのはその場にいないはずの人物で、かなでは驚いて目を開いた。
上からかなでの顔を覗き込んでいるのは、榊大地だった。よろけた体を受け止め、肩を抱かれた格好になっていると気付き、かなでの思考回路は一瞬で使い物にならなくなる。先ほど頭に当たったのは大地の胸部だ。体中が緊張に凝り固まる。
かなでの様子に気づいたのかすぐに大地の手が外れ、かなでの足はしっかりと地面に着いた。気持ちの整理なんて全く出来ておらず、気分はふわふわとどこか宙に浮いている。
「気をつけろよ、岡本。ひなちゃんの浴衣が汚れる所だったぞ」
「……榊!」
間一髪、体のバランスを立て直して焼きそばとたこ焼きの雪崩を自力で防いだ岡本は、突然現れて意中の彼女をかっさらった同級生を呆然と見つめていたが、すぐに臨戦態勢に切り替わった。キッと睨み付けて対峙する。
────お前、いつもいつも美味しい所を~」
「ひなちゃんの窮地を助けた人間に恨み節かい? 穏やかじゃないなぁ」
頭から湯気でも出そうな岡本に対し、大地はいけしゃあしゃあと肩をすくめる。
「ちぇー。ホント、こいつはこれだから……」
「何、買いすぎたからそれくれるって?」
「お前にはやらねーよ! これは小日向さんにあげようと買っておいた────
「何だよ、最初からそのつもりか」
「あ、やべ。……と、とにかくだな、俺は小日向さんと一緒に」
────って言ってるけど、ひなちゃんはどうなんだい?」
舌戦を繰り広げる先輩二人を見上げていたかなでは、矛先が自らに向いたことに気づいて慌てた。
「あ、あの、ごめんなさい、今日はもう色々と食べてお腹いっぱいですし。もらうわけには……」
「そっかぁ……そりゃ、残念」
岡本はがっくりと肩を落とす。その心底がっかりした様子に、かなでも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんなさい」
「ひなちゃんがそんな顔することないよ。岡本が勝手にやってることなんだから」
「お前は一言多い! 小日向さん、気にしないで」
かなでが小さく微笑むと、岡本はほっとしたように笑った。それでもこの場に居づらくなったのだろう。すぐに別離の挨拶を切り出した。
「……それじゃ、小日向さん、また今度な」
「気を付けて帰れよー」
「さようなら」

背中を見送って、はたと気付く。大地はかなでの傍らに寄り添い、やさしくかなでを見つめている。
目が合ってしばらくそれを見つめてしまった。慌てて俯くが、頬が火照って止まらない。
「……あの、ありがとう、ございました」
語尾が小さく掻き消えてしまったが、大地には届いてるのだろう。苦笑する気配がした。
「ひなちゃんが無事ならそれで」
あのままだったらひなちゃんの浴衣が汚れそうだったからね、と大地が言う。しかしその後は会話が途切れ、祭囃子や呼び込みや雑踏のざわめきが耳を擽るばかりだ。
話題を探すのに大したものは見つからない。
大地は既に着替えていて私服だった。着物が似合っていた、と言ったら彼は笑うのだろうか。売り場でそうだったように。
それを声に出しては、その場に居たことを暴露するようなもので、言いかけた口を閉じる。
しかし、かなでは気付いていなかった。普段、場を盛り上げるために豊富な話題を常備している大地が、珍しく黙ってしまったことに。
かなでの浴衣を誉めるタイミングを失って、その言葉を苦く飲み込んだことに。

────ああ、そうだ。ひなちゃん」
焦れたように声音を変え、話始めたのは大地だった。
「今日、神社でバイトしてたんだけど、これ、ひなちゃんに」
「え?」
差し出されたのは大願成就のお守りだった。
「ひなちゃんの願いが叶いますように」
お守りを受け取ると、優しい笑顔と出会した。
彼は優しい。かなでがどんな態度でいてもそれは変わらない。
かなでだけが不安や疑念に惑わされて前が見えなくなっている。
大地はいつだって、こうして支えてくれているのに。

堪えていた涙がぽろぽろと溢れ出してしまった。
止めようと思ったのに、どこからわき出てくるのか、頬を伝うまでもなく石畳に降り注ぐ。
「え、ひなちゃん?」
「ごめ……なさ、い、ごめんな、さい、ごめ……なさ……」
しゃくり上げながら、バカの一つ覚えのように謝罪を繰り返す。
それが何に対してのものなのか説明しようにも、息が苦しくてままならない。
「ああ、擦らないで」
涙を拭う手を止められた。両手首を捕らえられ、困ったように上目遣いになる。
けれど涙で狭まったかなでの視界には、大地の口元までしか見えない。それは半月の笑みを形作っている。
その唇が近付き、低く甘い声が耳元に落ちた。
「目を擦っちゃだめだよ。どうせ泣くなら、この方がずっといい」
そのまま引き寄せられ、かなでの頬に大地のシャツが当たる。
肩を抱かれた抱擁はごく軽いものだった。逃げようと思えば逃げられたかもしれない。
人通りの多い参道から狛犬の影に入り、人目に付かない態勢なのも大地の気遣いだろう。
優しく暖かな体温を感じて、かなでの中にあった蟠りが溶けるような心地だった。
声を上げることはできなかった。それは最後の意地でもあった。
呼吸が苦しくても押さえ込み、涙だけが感情の発露だった。
大地の手がずっとかなでの背を撫でていた。

一頻り泣いてようやく身を起こす。
持っていた巾着からハンカチを出そうとすると、すかさず大地がハンドタオルを差し出した。
「ありがとう、ございます。……これ、洗って返します、ね」
「いいよ、気にしなくて」
「あと……すみませんでした」
「それは何に対しての謝罪?」
「先輩に対して……色々と嫌な態度でしたし」
「別に気にしてないよ。ただ……」
大地は思案するように顎に手を当てた。

────そうだな。俺の願いを一つ、聞いてくれる?」
「は、はい。私にできることなら」
「うん。ひなちゃんにしか出来ないことだけど」
「何でしょう?」
急に変化した空気に緊張を覚え、背筋を伸ばして聞き入る。
大地は優しくかなでを見つめた。
「ひなちゃんは笑っていて」
「え?」
「俺に向かって笑っていてくれたら、それでいいから」
にっこりと笑う。
片目を瞑ってみせるけれど、どこか照れ臭そうだった。

ああ、そうか。
何を悩むことがあったんだろう。
私、大地先輩のこと、好きなんだ。

気付くのが遅すぎると、後日ニアには笑われた。
けれど、まるで霧が晴れて青空が見えるようにクリアな気持ちだった。

「私、アンサンブル頑張ります。明日、一緒に練習してもいいですか?」
まだ涙の残る頬はひりひりと痛む。
それでも笑顔らしきものを浮かべると大地も嬉しそうに頷いた。
「もちろん、喜んで!」


【続く】

Comment

ニアが暗躍してます。

初出:2010/06/12

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