絡まった糸を解く手順

切なさの答は一つしかない


何もかもが朱に染まっていた。
青い空の片側が既に溶鉱炉のようだった。
焦がすような日に焙られ、放射状に流れる雲の縁が金色に焼き付いている。そのまま、時折吹く南風に煽られるように朱から青へと変化するグラデーションの下をゆっくり移動していた。
屋上に通じる非常口を押し開くと、絵の具をチューブからそのまま垂れ流した抽象画のような空が見えた。青と朱と、白と灰と金。その全てが陰鬱な影をまとっている。
日中なら、非常口を開けると真っ白な陽光が目を焼く。
しかし今はもう太陽にその力はなく、西の果てに沈もうとしている。
今日という日を終える準備を始めている。

一日、やるべきことは全てやった。
一人一人に与えられた役割を過不足なくこなし、全体の音を合わせてチームワークを確認し、万全の態勢を整えた。
あとはもう帰宅して、明日に備えて体を休ませるだけだ。
それでもまだ学内に残っていたのは、どこか気分が高揚していたのだろう。
素人から3年もオケ部に所属し、コンクールに参加し、明日はその決勝戦だ。何と得難い経験だろうか。何と充実した夏休みだろうか。
音楽に関してだけではない。身に降りかかった変化は急激で、大波に飲み込まれて押し流されるようだった。
見えていた世界の色が一変する。
こんな心境になるなんて、初めて知った。
心持ち一つで、空も雲も異なって見える。

榊大地は風にかき乱された髪を大きくかき上げた。
音楽科校舎の屋上は、夕焼けに照らされて静まりかえっている。通常なら校舎全体から響き渡る何かしらの────弦楽器から鍵盤、木管金管、打楽器と多種多様な音が漏れ出て賑やかなのに、下校時刻が差し迫った今は風の音が僅かに散らばっている程度だった。
目的の人影はすぐに見つかる。屋上の南端、柵にもたれてぼんやり暮れゆく空を見つめていた。
足音を忍ばせたつもりはなかった。ある程度の距離が縮まった所で「ひなちゃん」と声をかけたら、彼女はびくりと肩を揺らして振り返る。
かなでは大きな目を見開いて大地を見た。声をかけられると思っていなかったその様子に微笑を返して、大地は何でもない態度を装って近づく。
「大地先輩」
「どうしたんだい、こんなところで」
「あ……いえ、特に用事があったわけじゃないんですけど」
バツが悪いのか、目線がゆらゆらと大地から逸れていく。
そうこうしている間にもかなでとの距離を詰めて隣に並ぶ。
ほんの少し、彼女の体が縮こまった。
────解るよ、俺も何となく帰る気にならないし」
「大地先輩も?」
見上げるかなでの目は真っ新で、油断しているとたじろぐほどの透明度と真っ直ぐさでこちらを射抜く。
今は意外なものを見つけたような視線だ。
大地が肩を竦めてみせると、かなではちょっと考えるような仕草をした。
「私、何となく帰るのが惜しいというか。まだここに居たいって思っちゃって」
視線を西の空に戻してかなでは自分の心を見つめ直すように言葉を選ぶ。
「変ですよね。明日の決勝が待ち遠しくて楽しみなのに。同じくらい、今日が終わって欲しくないとも思ってしまって。今日、皆で練習して仕上げも完璧で、本当に本当に、これで最後だって確信が持てたのに」
今、この瞬間が終わって欲しくない。
できれば手の中にぎゅっと閉じこめて瓶につめてしまいたい。
その気持ちを、手に取るように理解できた。

────うん。俺も、そう思う」
かなでの横顔から視線を逸らして大地も呟く。
「ほら、学園祭の準備で前日に皆で盛り上がったりするだろ? あれと同じと言うには次元が違うけど、本番よりずっと楽しかったりして妙に記憶に残ってる。今日もきっと、そんな風に思い出になるんだろうな」
「……もしかしたら、ちょっと怖いのかも」
大地を振り返り、かなでが少し笑った。
「まだ何か足りない気がしちゃったり、もう少し練習したいとか、もう一々キリが無いですよね」
「うん。でも、ひなちゃんは頑張ってきたんだから、もっと自信もっていいよ。俺が保証する」
「はい! 大地先輩の保証なら間違いないですね!」
「うわ、それはちょっと買い被りすぎ。俺、責任重大じゃないか」
顔を見合わせて笑いあう。ようやく、彼女の表情にあった陰りが消え失せた。
笑顔に見とれそうになって視線を下にずらす。彼女が両手に何かを握りしめていることに気づいた。
「ひなちゃん、それは?」
「あ……こ、これは……その……」
かなでは狼狽えて、視線から逃れるように俯く。辛抱強く大地が待っていると、じきに上目遣いにこちらを見上げてくる。本人としては睨んでいるつもりだろうが、大地にしてみれば可愛らしくてたまらない。
「笑わないでくださいね?」
吹き出す前に釘を刺され、内心は冷や汗ものだ。視線で促すと、かなでは思い切ったように手を広げた。
中には、先日の祭で大地がプレゼントしたお守り。

「これ……」
「あ、あの! 大願成就なんで! 優勝できますようにって願掛けしてたんです……!」
叫んだかなでの顔は夕日に負けないほど真っ赤になっている。
慌てて閉じた両手の中に、お守りを大切にしまい込んで。
大地は、しばらく反応できなかった。
幸い、かなでは自身の照れや恥ずかしさを処理することに精一杯で、大地の反応どころの騒ぎではない。湯気が出そうな頬を抑えて呻いている。
────うん、嬉しい」
ようやく絞り出した声は少し掠れてしまった。
喉元まで込み上げた熱いものが、体中を震わせる。ぎゅっと拳を握り、全てを飲み込む。
「え?」
「両方の意味で嬉しいよ」
それでも何とか押さえることが出来たと思う。体中いっぱいにわき上がる感情を、抑えても抑えても後から次々と漏れ出てしまうそれを、そのまま表に出してしまうわけにはいかない。
「優勝を願ってくれたこと、そのお守りを……ちゃんと有効活用してくれたこと、嬉しいよ」
少し口元をゆるめて正直な心境をはき出すと、かなではまだ赤みの残る頬を緩めて微笑んだ。
そうしている間にも空はその明度を落とし、焼け付くような朱は薄く淡く霞んでいく。
「さ、そろそろ帰ろう。ゆっくり体を休めないとね」
「はい。解りました」
出口へと視線で促すと、彼女は素直に頷いた。

用心深く一線を引いて距離を保つ。
慎重にブレーキを踏んで、先走ろうとする感情を抑える。
すぐ隣で肩を並べて歩いているけれど、かなでの仕草はどこかぎこちない。
幾分マシになったとは言え、全てが元に戻ったわけではない。いや、元に戻ることなど不可能だろう。
それなら、少しでも進展していると解釈して進み続ける他はない。
何も安心しきってほしいわけではない。それでは逆に男として認識されていないようで寂しい。
しかし今は微妙な距離が接触を阻む。手に触れることさえできなくて、結局片手はポケットの中に収まった。
嫌われたくないなんて理由で躊躇するなんて、まったく俺らしくない。大地はそっと、聞こえないようにため息をはき出した。


今から思い返せば、無自覚に目を瞑っていられたことこそが奇跡的だったとしか言いようがない。
岡本の告白は、一つのきっかけに過ぎない。
どこかで鈍感に為らざるを得ない部分があったのも確かだ。他人から好意を寄せられることはあっても、自分から希うことは無かったのだから。
例え自分で恋だと思っていても、どこか醒めた思考のままで他人事のようだった。
それが、まるで誰かに背中を突き飛ばされて奈落に落ちるように填りこむ事態だ。予想できるわけがないし、できるとしたら超能力でも使わなければ無理だろう。

彼女と関わるようになってそう長い年月が経ったわけではない。
しかし積み重なる一日がどれも特別で重要だった。毎日のように顔を合わせて言葉を交わし笑顔に接していて、何も感じずにいられるだろうか。
それでも、何度も口にしていた可愛いという形容に含まれた感情が確実に変化していたことに無頓着だった。
どこかで高を括っていた。そんなはずはない。他の子と何が違うのだろうか、と。
今は誰より輝いて見えるのだから、人間の見え方なんて単純で現金なものだ。

初めて出会った時から少しずつ変わって、育まれていくものがあった。それらはどれもゆっくりと、止まっていると錯覚するほどの速度で動いて互いを近づけていた。
土に埋められた種子が芽吹いて茎を伸ばし葉を広げて、やがて花をつけるように。
誰にも、自分自身さえ気づかず省みることもないまま放置していた感情は、確実に成長を遂げていた。発見した時にはもう手遅れというほどに。
その事実を突きつけられて、狼狽する。
こぼしてしまったのは本音の欠片だった。全てではなかったにしろ本音は本音で、失敗は失敗だ。
動揺は空気感染し、微妙な距離が生まれた。
近づくことを焦っては逃げられる。かと言って背中を向けられるほどの度胸や自信などないから、駆け引きにもならない。
かなでが大地を意識して戸惑っているのは解る。
それまで見せたことのない種類の表情をかいま見せるようになった。
赤く染まった頬と少し俯き加減に目を伏せる仕草。長い睫毛が影を落とす瞳に、困惑と羞恥が揺れている。
天真爛漫で純朴だった少女に、時折ぞくりとするほど艶めかしい色が加わった。
それは恋を知った証しだと解釈していいのだろうか。
自分が与えた影響だと、うぬぼれても。

かなでを寮まで送り届け帰路についた頃には、もう空は暗く街灯だけが煌々と大地を照らしていた。
明日は容赦なく訪れ、今この瞬間を留めておくことはできない。
そこでどんな結果が待ち受けているのかが解らないからこそ人は不安に揺れ、恐怖する。
しかし、結果は原因があって帰結するものだ。昨日から今日と続いてきた道をこれからどう進むのか、今この瞬間にも選択を迫られる。
運命なんて言葉は信じないけど、明日が決まっているのならそれは今日の延長線上に刻まれた結果なんだろう。
毎日くたくたになるまで練習を重ね、技術を磨きチームワークを育んできた。
コンクールを明日に控え、不安は無い。仲間を信じるだけで、道は開かれる。

気がかりなら一つだけ。
胸の片隅に居座って常に痛み続ける。その存在を忘れさせてくれない。
切ないと想う、愛しいと感じる、それらの気持ちは一時たりと消えてくれない。
一人で想いを抱えているだけならまだいい。問題は対象となる人物へと働きかけようと体中が求めるのだ。
我が侭に一方的に利己的に、成就を願いながら不安や不平を言い立てて収拾がつかない。
何を選択すればどこへ向かうというのだろうか。
こればかりは、そう簡単に答えなど出そうになかった。



 

乾杯の声と共に会場は喧噪にまみれる。
全国学生音楽コンクール・アンサンブル部門は星奏学院の優勝で幕を閉じた。
祝賀パーティは優美なアールヌーボー様式と現代モダンの混じり合った典雅な会場で執り行われる。
参列は年端もいかぬ十代が中心と主催側も心得てるだろうに、大仰なほど上品な装飾のパーティだ。
星奏学院オーケストラ部部長如月律が挨拶し、乾杯の音頭を取ったのは副部長の榊大地だが、大騒ぎになるのはもう目に見えていた。騒ぐぞ!と待ちかまえるような空気がそこに出来上がっていたのだから。
グラスに注がれた飲み物は適度に甘い炭酸水で、アルコールは無い。それでも騒ぎを促進させるに十分だろう。
品良く盛られた料理も、あっという間に駆逐されていく。
立食バイキング形式で大皿に盛られたコールドチキンサラダや牛肉のパピヨット、サーモンのカルパッチョに卵入りミート・ローフやシーフードグラタン、ポテトフラン、夏野菜のマリネ、パスタ、寿司やサンドウィッチなどなど次々と運ばれては食べ尽くされてしまう。
食欲旺盛な高校生が集まれば当然というべきだろうか。殆ど先を争うように消費されていく。
とはいえ、星奏生に食事の暇など与えられるはずもなく、周囲は常に人だかりが出来ていた。
気づけば同校・他校に関わらず女子生徒によってがっちり周囲を固められてしまった大地は身動きが取れない。
次々と贈られる祝辞と賞賛を無下に扱うわけにもいかず、笑顔を貼り付けて対応した。
ぞんざいにあしらわれたと感じないよう注意しながら最低限のラインを引いて全員を平等に遇する。
ある程度の会話で満足して輪から抜け出る者もいるが、そのスペースは別の人間に取って代わられ全体の人数はなかなか減ってくれない。
中にはがっちりと会話に食いついてくる者もいて、なかなか大地を解放しそうになかった。
それでも笑顔が崩れることなく、対応に綻びは見せなかった。
頭一つ下の位置から仰ぎ見る彼女たちの視線は、まるで大地を崇拝でもするかのように熱っぽくきらきらと輝いている。
尊敬や憧憬や思慕が表面を覆い、水面下には他者の牽制とあわよくばという下心が覗く。
だからと言って彼女たちを責められる立場にないことはよくわかっている。
身に覚えがありすぎて苦笑するしかない。
グラスを呷ると気の抜けた炭酸が少量口に流れ込んでくる。都合よく空になった。
「……ああ、飲み物が切れたな」
「あ、私、もってきましょうか?!」
「いえ、私が」
「大丈夫、それくらい自分でやるよ、ありがとう」
一斉にわき上がった声に苦笑し、「ちょっと外すよ」と断って輪から外れる。
悪いね、と心中に詫びて人混みに紛れ、会場を横断した。もうそこに戻るつもりはない。

パーティが始まってからずっと、白いドレスの少女の行方が気がかりだった。
横目にずっと確認していた。
今夜の主役と言うべき少女、小日向かなでの周囲も大地と同じように、いやそれ以上に賑やかだった。
オケ部の面子は当然として、ライバル校の生徒まで入れ替わり立ち替わりやってきて取り囲む。
誰に対しても笑みを絶やさず、大地とは異なり心から楽しげで、それだけでも胃が締め付けられるような心地に陥る。誰かがその細い肩に触れようものなら煮えくりかえる始末だ。
こんなにはっきりと妬心を自覚させられて、それでもすぐに飛んで行くわけにもいかず、もどかしさが募る。
感情にまかせて走り寄り、その手をひいて連れ出してしまえたら。男女ともに牽制できるし、かなでは自分のものだと宣言できて一石二鳥ではないだろうか。
けれど頭の冷静な部分が、そうしたところでフォローが面倒になるだけだと忠告する。
そもそも、まだ何一つ確証は得ていない。
敗退なんて結果になっては目も当てられない。
成功を期待しつつ、ぬか喜びを警戒している。
臆病なのか慎重なのかもう解らない。
こんなにも一歩が重いなんて、どうかしてる。

今はニアと談笑するかなでの側に近寄った。
「あ、大地先輩」
ころころと鈴のような笑い声をあげていたかなでは、そのまま楽しそうな顔を大地に向けてにっこり笑う。
大地は僅かに目を細めた。
「やぁ、ひなちゃん借りていいかい?」
明るく軽口でも言うような声音で問いかける。
「真打ち登場ってわけか。それじゃ、邪魔者は退散しよう。ごゆっくり」
意味深な笑みを浮かべてニアが笑う。かなでの肩をぽんと叩いて通り過ぎていった。
残されたかなでの不思議そうな顔に、微笑を返した。
────ちょっと外出てみない?」

彼女が会場の端、テラスへの入り口付近に居てくれたことを心中に感謝していた。
必要以上に目立つことなくエスケープして二人きりになれる。
壁の花にするには華やかすぎて、存在感がありすぎるなんて本人に自覚はないだろう。それが今の大地にとって救いでもあった。
宴もたけなわとばかりに背後から笑い声がどっと沸いた。少し振り向いて確認した会場に、自分たちを注視する者はいなかった。
テラスから外に出るとそこは薔薇の生け垣が配された庭園で、濃厚な香りが漂う。
中央には間接照明を反射してきらめく噴水が涼やかな音をたてていた。
「わぁ、素敵な庭園!」
「ほんとだ。会場も綺麗だったけど、ここはまた格別だね。こんなに綺麗なひなちゃんと二人きりになれるし」
「…………」
軽いジャブのつもりが、彼女にとってはストレートだったらしい。
足を止めて黙り込む。
────あの」
冗談だよ、と取りなすつもりが、かなでに先を抑えられた。
こちらをまっすぐ見つめる視線に表情を改め、向き直って続きを待つ。
「あの……私、先輩にずっと訊きたいことがあって。今まではコンクールがあったし、音楽に集中してたから言えなかったんですけど、今ならもう全部終わったし、だから私────
「ちょっと待って」
頬を紅潮させて急き立てるように言い募るかなでを制止した。
泣きそうな顔をするので、大地は安心させるように目を細めて微笑む。
「俺から言わせて。だって、告白は男からしないと格好つかないだろ?」
「こ、告白って」
泣き顔から、ぎょっとしたような驚いた顔になる。少しおかしくなって口元を抑えて笑う。
「あれ? 違った? この前の屋上で俺が言いかけた話の続きかと思ったんだけど、……ひょっとして違ってた?」
「い、いいえ! その話です!」
「よかった、俺の勘違いじゃなくて」

一歩、かなでに近づく。
かなでは動かない。逃げられないことに安堵して、もう一歩。
手が届く距離まで近づいた。
「あの時に殆どバラしてたようなもんだけど、仕切り直しさせてもらっていいかな」
質問ではなく確かめる口調に、かなでは黙って続きを待っている。
大地は少し身を屈めると、彼女の小さな手をすくい取って両手で包んだ。
「ひなちゃん。俺は君が好きだよ。誰よりも何よりも。……だから、俺の恋人になって」
「はい。私、先輩の恋人になりたいです」
かなでの答えと同時に、ぽつりと冷たい滴が手の甲に落ちた。
見なくても解っている。
一端かなでの手を解放し、今度は両手を肩に回した。
そのまま軽い体を引き寄せて抱きしめる。

「……大好き」
大地の胸のあたりでくぐもった声がした。
「だめだよ、ひなちゃん」
「え?」
「そういう台詞は俺の目を見て言って」
「もう、先輩!」
ぽかりと脇腹を叩かれた。可愛らしい攻撃に微笑みながらいっそう強く抱きしめる。
「冗談なんかじゃないよ。こんな重要なこと、俺が聞いてなかったらどうするんだい?」
「……気づかないフリでスルーして下さい」
「それは出来ない相談だなぁ」
かなでの腕が大地の背に回り、きゅっと抱き合う。
たまらない気持ちになって、かなでの頭頂部に頬を寄せ唇を押しつけた。鼻孔は彼女の髪から漂う花の香りでいっぱいに満たされる。
あちこちに唇を落とし、頬を押し当てた。
何度もそうしているとそれだけじゃ物足りなくなってくる。

「ねぇ、ひなちゃん」
「はい?」
「キスしてもいい?」
直球の質問に、彼女の体はびくりと反応する。
密着しているので包み隠さず伝わってしまう。だから、大地が緊張していることも解っているだろう。
顔を上げたかなでは上目遣いに大地を見る。
「い、いいですけど、私、経験ないからどうしたらいいのか」
大地は笑いをかみ殺した。素で吹き出す所だった。
腕の中の恋人は、次から次へと可愛らしい発言で大地を振り回す。天然素材だから手に負えない。
「それじゃ、目を閉じて」
かなでは素直に聞き入れ、目蓋を閉じた。
それでも緊張しているのだろう。赤く染まった頬の上で、長い睫毛が小さく震えた。
「怖がらないで」と低く囁いて、頬をそっと両手で包み込む。

遠く会場の喧噪が風に乗って流れてくる。
しかし、大輪の薔薇が咲き誇る側で重なり合った二人の影は、暫く離れる気配もない。


【終わり】

Comment

「胸の痛みを知った夜」の続きで、これで一区切りです。
寮での決戦前夜はニアで、ゲームとはちょっと違う展開の恋愛ED。

初出:2010/07/17

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