Siesta

玄関ホールに立ち尽くして、冥加玲士は眉間に皺を深く刻み込んだ。
大理石を敷き詰めた広い空間に、今はすっかり見慣れた家族ではない者の靴が、揃えてぽつんと置いてある。
彼の唯一の肉親である妹の靴は無い。つまり妹の枝織は外出しており、客が中に一人留まっているということだ。
それが誰かなど詮索する必要もない。
想像するまでもない。

つい先日も手作りのキッシュを持参してやってきたばかりだ。
今日は何を作ってきたのかは知らないが、訪問の間隔が狭まっている気がする。
枝織が彼女を大変気に入っているのは周知の事実で、それを咎めるつもりはない。些か不本意ではあるが。
手土産と称して作ってくるパイやケーキはどれも絶品で、冥加の舌を唸らせるほどの出来だと認めざるを得ない。渋々ではあるが。
しかしこうも頻繁に来訪するのはそれだけが要因ではないと、枝織の自分を見つめる悪戯っぽい眼差しが如実に語る。

夏の大会以降、随分と堕落したものだと自嘲の吐息が漏れた。
玄関を上がって間接照明が照らす薄暗い廊下を進み、リビングのドアを開けると光りが溢れる。
少し目を細めて見渡せば、ソファに小さな異物が一つ。
大きく開いた窓から午後の陽射しをたっぷり浴びて、小日向かなでがソファとクッションの隙間に埋まるような形で眠っていた。
冥加宅に上がり込んだばかりか、すっかりくつろいでいる様子だ。

再び、溜息を吐く。
その危機感の無さと無防備さは何なのだろう。
常々自分は敵だと言って聞かせているのに、まるで暖簾に腕押しと手応えがないと思っていたが、ここまで馬耳東風を貫かれては二の句も継げない。
その上、顔を合わせる度にかなでは嬉しそうに笑うのだ。頬を緩め目を細めて顔中いっぱいの笑みを作って。
そんなふやけた顔を見せられては用意していた悪口雑言も使い物にならなくなってしまう。
例え吐き出した所でしょんぼりと萎れたような顔をされるだけで、それはそれで面倒だった。
そんな表情の数々も今は閉じられた目蓋の奥に仕舞われ、寝顔はひどく稚い。

足音を忍ばせてそっと近寄った。
ガラスのテーブルには陶器のティーセット。空になったカップとパンくずのついた皿。
枝織との歓談は一段落し、席を外した隙に小日向は時間を持て余して眠ってしまったのだろうと、事の顛末を一瞬で把握する。
そっと彼女の傍らに片膝を付いた。顔を覗き込んでも起きる気配は全く見当たらない。
小日向と居ると自分が自分でなくなるような、落ち着かない気分に陥る。
騒がしく心臓が動き、そうしている間にも体温が跳ね上がり、正気とは思えぬ言葉ばかりが頭に思い浮かんでくるのだ。
これ以上近付いてはならない。理性は警告を発していた。

自らの感情を疑い、言動を訝しむ間にも手は小日向へと伸びる。
彼女から甘くて優しい香りがして、誘われるように近寄る。
明るい色の髪に触れた途端、ぴりっと指先に電気が走ったような気がした。
柔らかくて細い毛はまるで絹のような手触りだった。
力を入れたら壊れてしまいそうで、細心の注意を払ってそっと撫でる。
指先が震えた。
例えばそれは貴重な骨董品や芸術品を取り扱う緊張感にも似ていた。
愛用する楽器への扱いにも近いかもしれない。
けれど、するすると滑るように指先を伝う髪の感触も、甘い香りも、まるで低温火傷させるかのように神経を嬲る。
焼き焦がされて使い物にならなくなる理性とは裏腹に欲望はふくれあがり、もっともっとと先を欲するのだ。

「……んっ……」
微かに開いた唇から吐息が漏れた。
慌てて身を離す。
正気の沙汰とは到底思えぬ。
しかし、今こうして彼女の髪に触れていた手は間違えようもなく己のもので、それを本人に知られたくないと願っているのも冥加玲士自身だ。
覚醒した様子はないかと、その顔を覗き込む。
すると小日向の頬がふにゃっと弛んだ。
「……みょーが、さん……」


ぎゅっと心臓をわしづかみにされたような心地だった。
全身が発火したように熱い。肩から顔に血液が上がって紅潮する。耳の奥で鼓動が鳴り響く。
胸にわき上がる、この不快な痛みは何だ。甘く、どこかほろ苦い熱を伴った感覚。小日向かなでという特定の人間と関わる度、微かに感じていたものを黙殺してきたというのに、今は無視できないほど強く感じる。
とんでもない失敗をしでかしたと思った。慚愧の念が思考を塗りつぶす。
初めに理性が忠告した通り、近付いてはならなかったのだ。警告し、自らを戒めていたはずだった。それを無視したのもまた自分だっただけのこと。
ほぞをかむ思いで拳をぎゅっと握り、立ち上がって背を向ける。
一秒たりともこの場にいることは耐え難いと思った。
大股にリビングを横断してドアを開けた。乱暴に扉を扱おうとする感情に、理性がブレーキを掛ける。
些か自棄になっていたのは否めない。物に当たるなど、どうかしている。それに、小日向の睡眠を妨げるのも本意ではない。
結局、慎重にドアを締めて薄暗い廊下に戻った。

いつだってその場限りだと言い聞かせていた感情が、愛しいと想う気持ちが、小日向へと一直線に向かって迸るのを止められない。
あと一歩踏み込んでいたら自分は何をしでかしていたのだろうかと思うと、冷や汗が出る。
しかし、予想以上に事態は深刻な領域に達しようとしていた。

小日向かなでが居ることが当たり前になった部屋。
けれど彼女は住人ではないから帰宅することになる。
次はいつ来訪するのか。約束など取り付けていないから判る筈もない。
そうして小日向を待ちわび、憂う気持ちが芽生えてしまった。
彼女が居ない、その空白を思うだけで気が狂いそうになる。

そんなものに気付かなければ良かった。

冥加は閉じた扉に背を預け、目元を覆った。


【終わり】

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かなでSide

初出:2010/08/10

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