氷渡×かなで
「氷渡くん、こんにちは」
まるでビジネスビルのような学園から出てくると、横合いから声を掛けられた。
可愛らしく柔らかな声は、記憶にあるよりずっと優しく氷渡の名を呼ぶ。
一瞬、夢でも見ているかのような気がした。
小日向かなで。
星奏学院音楽科二年生。
「……あんた……」
「こんにちは。今、いいかな?」
「あ……ああ、別に構わねぇけど」
何故、彼女が今日ここにいるのだろうか。
彼女も学校帰りらしく、星奏のマークが入ったカバンとヴァイオリンケース、そして小さな手提げ袋を持っていた。
それを見て勘付かないほど鈍くはないつもりだった。
「そうか、今日はヴァレンタインか」
「あ、これ? バレちゃったかな」
手提げを持ち上げて、かなでは照れたように顔を赤らめる。
その仕草や表情が妙に可愛らしくて、氷渡は居たたまれなくなった。
氷渡にとって彼女は特別な子だ。
夏に行われた全国学生音楽コンクールのライバルでもあり、競争の渦中にあって彼女に酷いことをしてしまった。
しかし、彼女は笑顔で氷渡のしでかした愚行を許してくれた。
またコンクールで会おうとも言ってくれた。
季節が巡る中で何度か顔を合わせて言葉を重ね、少しずつ距離を縮めてきた。
けれど、その関係性に名を付けられないまま、時間だけが無為に流れてしまったようにも思う。
特別だと思っているのは氷渡だけ。
彼女にしたことを思うと、あと一歩を踏み込む足に躊躇いを覚える。
だから、その手に持っているだろうチョコレートだって、自分だとは思えない。
天音学園で彼女と親しい人物は、天宮や七海、(親しいと言っていいのか微妙だが)冥加だろう。
「ああ、冥加部長なら不在だが、天宮先輩や七海ならまだ学内に居ると思う。案内ならしてやれるから、こっちから────」
「あ、違うの」
早口に捲し立てた氷渡に対して、かなでは慌てたように首を振る。
「今日、渡したいのはね」
一度言葉を切って、赤くなった顔で氷渡を見上げた。
その潤んだ目を見て、氷渡は本気で狼狽えた。
まさか。そんな、都合のいいことが。
過度な期待はすまいと────もし違ったら、間抜けなのは自分だと予防線を張ろうとするのに、心臓は大きく高鳴っている。
「チョコレート、氷渡くんに渡したくて……迷惑だった?」
「いや……すげぇ嬉しい」
「良かった!」
袋を受け取って、氷渡は赤くなった頬を片手で覆った。
自分らしくないと思ってみても、嬉しい気持ちは止められなくなっていた。
【終わり】
初出:2011/02/16