律×かなで
律の自室は元から整理整頓が行き届いてシンプルかつ綺麗なものだ。
勉強机と本棚、衣装棚にベッドにガラスのテーブルと物も少ない。
今は段ボールの幾つかが積まれて、嫌でも留学という二文字をかなでに突き付ける。
こうと決めたら梃子でも動かず、まっすぐ決めた道を進もうとする幼なじみのこと、今更何を言っても進路を変えたりしないだろう。
駄々をこねて困らせたくない。
しかし、何もかも決めてしまう前に一言でも相談して欲しかった、というのが偽らざる本音だった。
今もまだ、心の整理なんてついてない。
星奏学院の卒業式と終業式が済んで菩提樹寮組は帰省を果たし、律も響也もかなでも地元に戻ってきた。
今日、改めて如月家に招かれ、勝手知ったる律の部屋に通された。改めて見る部屋の様子に、つきりと胸が痛む。
ああ、行っちゃうんだなー、と実感がじわじわと沸いてくる。
かなでの祖父が世話になったというイタリアの工房へヴァイオリン作りを習いに、長期留学という名の武者修行。
以前からその進路を望んでいたのは知っていたし、決めたからには応援したい。
でも、日本とイタリアは遠すぎる。
二年間、日本国内のたかが横浜と地元と離れていただけでも寂しかったというのに。
思いが通じた今となっては、その寂しさの種類も異なる。
幼なじみから晴れて想いが通じ、恋人同士となって半年以上の月日が流れた。
その殆どを学業と音楽に費やしてきたが、同時に心を重ねて想いを確かめ合ってきたつもりだ。
今日、3月15日。この日に家へと招かれた、その意味もよく解っている。
だから、今はそれで満足すべきなのだ。
律は誰より誠実に真っ直ぐ、かなでを見ていてくれたのだから。
かちゃりとドアノブが音を立て、扉が開かれた。
肩で押し開くようにして律が入ってくる。手に持ったお盆にはマグカップが見えた。
「あ、律君、私が」
「いい、お前はそこに座っていろ」
かなでは思わず腰を浮かすが、律は淡々とガラステーブルにカップや皿を移す。
律用にブラックコーヒーと、かなで用にカフェオレ。
皿にはイチゴの乗ったデコレーションケーキ。かなでの大好物だ。
元から器用な彼は家事の手伝いくらいは難なくこなす。
故に母親の信頼も篤く、やんちゃな弟との差は広がるばかり。そこが響也は気に入らないのだろうが、当人に自覚は無かった。
マグカップも元から律、響也、かなでと決められた物が食器棚に仕舞われ、それを取り出して注ぎ入れたくらいの気持ちなのだろう。
しかし、滅多に持て成されたことのないかなでは、妙に新鮮な心地で見守る。
「今日は……ホワイトデーだろう」
「うん」
かなでの前に腰を下ろし、律は淡々と説明する。
「世間ではバレンタインのお返しをする日だというから、用意してみたんだが」
「うん、嬉しい。ありがとう!」
えへへと笑うと、律の表情が解けた。
早速、ケーキにフォークを入れて食べやすい大きさに切り分ける。
口に差し入れると、クリームの上品な甘さが溶けて広がり、ふんわりとしたスポンジの柔らかな歯ごたえが続く。仄かにバニラの香りが鼻先を掠めた。
「美味しい!」
「それは良かった」
一口一口を味わい、その度に歓声を上げていると、優しい眼差しでかなでを見守る律と目があった。
「あ、煩かったかな、私」
「いいや。お前は本当に美味しそうに食べるな、と思って」
「そ、そうかな」
「ああ。……いい顔をしてる」
褒め言葉がくすぐったくて、かなでは身動ぎした。少しおどけてみせる。
「何か……見られてると食べにくいよ。律くんも食べて?」
「解った」
ようやく腕を動かした律を見て、かなではほっと息を吐いた。
ケーキはあっという間に平らげてしまった。
優しい時間は刻々と過ぎていく。
何か言おうと話題を探してみるものの、これと言って何も思い浮かばない。
両手で黄色のマグカップを包み込み、少しずつ甘いカフェオレを味わう。
「これ……お前に」
不意に律が動いた。小さな箱をテーブルに乗せる。
「え……私に?」
「大地に……ホワイトデーにはお菓子だけじゃなくて、何かプレゼントしたらいいと助言されて」
マグカップをテーブルに戻し、恐る恐る細長い箱を持ち上げる。
白いリボンを外し、深いアクアマリンの包装紙を解く。中から現れたベルベット地の箱を開けると、金の鎖が現れた。
金細工も精巧な、小さなヴァイオリンを象ったペンダント。
小さくシンプルだが、室内灯を反射して煌めいている。
律は微妙にかなでから視線を逸らしながら、首の後ろに手を回す。
「何を贈っていいのか解らなくて、迷ったんだが……その、気に入らないのなら」
「ううん、嬉しい……! すごくすごく、嬉しい……」
「かなで……」
律がぎょっとしたように顔を強張らせた。
かなでも自覚している。目の奥が熱くなって、鼻の奥がつんと痛い。止めようもなく涙が溢れている、と。
「ありがと……律、君……!」
嫌で泣いているのではないと主張したくて、嗚咽まみれになりながら言葉を重ねた。
「すごく、嬉しい……! 大事にするね……!」
閉じた箱をぎゅっと握りしめ、かなでは目元を拭う。
これ以上、涙を見せたくないと思うのに、次から次へと溢れてはスカートに落ちていく。
あたふたとかなでが顔を整えている間に、衣擦れの音が聞こえた。
同時に、律の眼鏡がテーブルの上に置かれた音も。
「かなで」
すぐ近くから律の声が聞こえ、かなでの肩がぴくりと跳ねる。
長く骨張った指が伸びて、かなでの頬を撫でた。
驚いて手を止めると、ぽろりと眦から涙が一粒落ちる。
頬に出来た跡を消すように、律が唇を寄せた。
そのまま伝うように唇が頬に触れ、ちゅっと音を立てる。
かなでの両耳に、律の両手が添えられるように触れていた。かなではそれに自らの手を重ねる。
眼鏡を外した律の綺麗な目とかなでの目が間近に見合った。
探るような眼差しを送ると、律は戸惑うように目を伏せる。
長い睫毛だなぁと、かなでは半ば現実逃避的に監察していた。
「律、君……?」
「泣くな。……お前に泣かれると……どうしたらいいのか、解らなくなる」
「違うの、これは……その、うれし泣きだよ?」
「解ってる。解ってるけど」
赤く染まったかなでの頬は、律の手が移動して包み込まれる。
そのまま律は、顔の角度を変えて近付いてきた。
「あ……」
これが初めてではないけれど、未だ慣れない。
かなでは思わず息を止めてしまう。
そうしてる間に唇が触れ合い、熱を伝える。
優しいキスだ。
想いを確かめて、触れあうことだけを目的としたように、律は決してかなでに無理強いしない。
その優しさが嬉しくて、同時に切ない。
もう少ししたら日本を旅立ってしまうのに。
こんな風に触れていられるのはあとどれくらいだろう。
かなではぎゅっと胸が締め付けられるような気持ちになった。
堪らなくなって、自分から首に手を回しぎゅっとしがみつく。
「ん……っ」
顔の角度が変わり、押しつけられた唇がこすれ合う。
ちゅ、と濡れた音が漏れた。
たったそれだけで、背筋がぞくぞくするほど気持ちいいと知る。
切なくて苦しくて、なんて甘い。
かなでの閉じた目蓋から一筋の涙がこぼれ落ち、律の手を濡らした。
【終わり】
Comment
少しビタースィートな感じのホワイトデー。
初出:2011/04/01