大地×かなで

朝から冷たい雨の降る暗い天を見上げ、かなではそっと溜め息を吐いた。
今日という日を楽しみにしていただけに、落胆は小さくない。
卒業式と終業式を済ませ大半の寮生が帰省する中、かなでだけは滞在申請を出していた。
横浜に留まって、好きな人との時間を目一杯楽しむつもりだった。
相手は一つ年上で、この春、星奏学院を卒業した。無事に第一志望の大学にも受かり、前途洋々。
彼の受験と自身の学業と音楽活動ですれ違いの日々が続き、ようやく手に入れた時間でもある。

その初っぱながこれですか、神様。
運命は意地悪だ。

傘の向こうに銀の糸を垂らす風景に、もう一度溜め息。
動物園に行く予定も白紙になった。熊の赤ちゃんが公開されたというので、かなでからの希望だった。
ふれあい広場で小動物と触れあいたかったし、広々とした動物園を隅々まで二人で見て回りたかった。
少々子供っぽい予定かなと思わないでもなかったが、大好きな人は優しく笑った。
「ううん、嬉しいよ。ひなちゃんと沢山色んな所に行きたいから、もっと希望を言って」
全部叶えてあげるから、と。彼はどこまでも甘いくて優しい人。
その優しさに溺れて、ちょっぴり欲張りになってたのだろうか。
スケジュール帳にハートマークを書き込んで、楽しみにしていた日だった。
その雲行きが怪しくなってきたのは昨日のことで、週間予報にはなかった雨マークが突如14日に張り付く。
電話でその事を伝えると、「それじゃ、動物園は晴れた日にしよう」と予定変更になった。
駅前アーケードでぶらぶらショッピング、が決定事項。
それでもいいけど、やっぱり出鼻が挫かれたような、寂しい気持ちになる。

「ひなちゃん、待たせたかな?」
ばしゃばしゃと水たまりを駆ける音がして振り返ると、待ち人・榊大地が息せき切って駆けつける所だった。
「まだ時間前だし、そんなに待ってませんよ」
「そう? なら良かった」
息をすぐに整えて、大地は爽やかな笑顔を浮かべる。
けれど、おしゃれなジーンズや靴が雨に汚れるのも構わず走ってきてくれた事が、嬉しいやら申し訳ないやらで胸がいっぱいになった。
こんな雨くらいで不機嫌になっていたら、折角のデートが台無しになってしまう。
かなでは横に並んだ大地の腕をきゅっと掴んだ。
「ひなちゃん?」
「動物園は延期になっちゃいましたけど、今日は今日でいっぱい楽しもうと思って!」
笑顔を向けると、軽く驚いた顔をしていた大地はふっと微笑んだ。
「うん、そうしよう。ひなちゃんと一緒なら、どこでも楽しいから」
見てるこちらがとろけてしまいそうな、甘い甘い笑みだった。

「……それじゃ、行こうか」
歩き出そうとすると大地は「傘を畳んで」とかなでを促す。
慌ててお気に入りの青い傘を閉じると、身体を引き寄せられる。
「それに、雨の日も悪くないと思うんだ。こうして密着してられるだろ?」
大地の大きい傘の中、肩を抱き寄せられて、かなでは真っ赤になった。
藻掻こうにも一歩外側は雨で、逃げ場もない。
「だ、大地先輩!」
「だめ……かな?」
顔を覗き込まれると、抵抗も出来なくなる。
「……だめじゃないです」
白旗を挙げると、大地は楽しそうに笑った。

ああもう、本当に。
この人には敵わないと、かなでは思う。

付き合いだしてからこの方、夢を見ているかのようだった。
互いにやるべきことがあって忙しい毎日だったけれど、暇を見つけては二人一緒にいた。
その間の彼はずっと大人で優しくて、かなでは与えられる一方だ。
ヴァレンタインは、数少ないかなでから気持ちをお返しする日だと思っていた。
なのに、ホワイトデーでこんなに甘やかされては、やっぱり与えられる一方な気がする。
対等とまでは行かなくても、大好きという気持ちを伝えたい。

かなではそっと肩に回された手に自らの手を重ね、大地の方へと身体をすり寄せた。
「ひな、ちゃん?」
「えへへっ」
少し照れくさい気持ちもあって、悪戯っぽく笑いながら大地を見上げた。
軽く目を瞠った大地は、困ったように声を詰まらせる。
かなでが期待した反応と異なっていて、不思議に思いながら大地の顔を注視した。
すると、大地は頬をほんのりと赤らめ、視線を彷徨わせる。
「ほんとに、君って子は……」
「大地先輩?」
「格好悪いな、俺は。振り回されるばかりだよ」
「え? そ、そんな事ないと……思いますけど」
振り回されてるのは自分の方だと、かなでは小首を傾げた。
「そう思ってるのはひなちゃんだけだよ」
大地は苦みを噛みしめるように笑う。
「先輩は格好悪くなんて無いです。もし先輩がそうだと思っても、私はどんな先輩でも大好きですから」
そんな大地を下から見上げ、かなでは思ったことをそのまま声に乗せた。

大地は再び驚いた顔をして、かなでを見詰める。
じきに、目元を緩めた。
「ほんと、敵わないな、ひなちゃんには」
肩の手を背中に回し、ぎゅっと引き寄せる。
ちゅっと音がして、大地の唇がかなでの額に押しつけられた。
あっという間にかなでの頬が赤く染まる。
「先輩……!」
「こんなことで照れたらだめだよ?」
もっと沢山、したいことがあるんだから、と大地は悪戯を企む少年のような顔をする。

「もう……やっぱり振り回されてるのは私じゃないですか!」
かなでは拗ねたように胸のあたりを軽く叩いてみるが、大地は楽しそうに声を上げて笑うだけだった。


【終わり】

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ひたすら甘い甘いホワイトデー。

初出:2011/04/01

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