土岐×かなで
珠玉END後・ほろ苦・誕生日記念
その声で名前を呼ばれると、心臓が飛び出しそうに跳ね上がる。
目が合うと、恥ずかしさに居ても立っても居られなくなる。
彼の前に立つのは実はとても勇気がいることだったのだと、後になって気付く有様だ。
初めは、彼の友人である東金千秋の方が怖いと思っていたのに。
穏やかで優雅な物腰の反面、気怠げに少し毒の含んだ物言いを投げ捨てる。
周囲の誰より大人びて、常に一歩引いた態度を崩さない。彼が自分より2つ年上と聞いて、それも納得したけれど。
遊園地に行ったり、お祭りに行ったり、彼の側に居て無邪気に笑っていられたのは、気付かなかったからだ。
その視線に含まれるものの意味を。
恋というものの正体を。
「なぁ、小日向ちゃん」
低い囁きは吐息に溶けてかなでの耳朶をくすぐる。
知らず、強張った肩がびくりと揺れた。
彼が握っているのはかなでの細い右手首だけ。それも強い拘束ではなく、解こうと藻掻けばすぐにでも解放されるのだろう。
けれど、一歩も動けない。
金縛りにでもあったかのように凝り固まって、相手の顔さえ直視できずに俯いている。
すぐ目の前に、手を伸ばせば届く距離にいるのに。
捕まれた手首が、彼の手がやけに熱く感じた。
その熱が腕を通って顔にまで上ってきてしまったようだ。みっともないほど赤くなっていることは自覚している。
そんな顔を見られていると思うだけで、恐怖にも似た羞恥がわき上がって止められない。
「あんまり怖がらんといて。今は何もせぇへんよ。……信用できへんかもしらんけど」
土岐が少しだけ上体を起こし、かなでから離れる。
熱の籠もった空気が動いて、幾分涼しくなった夜風が二人の間を吹き抜けた。
するりと指が外され、力を失ったかなでの手は自由落下して体の脇に戻る。
「あの、土岐さん、私……」
「しー」
「────っ」
言い募ろうと一歩前に出たかなでの唇に、長い指が押し当てられた。
「今はまだ、何も言わんといて。俺も先走りすぎたし、自己嫌悪入っとうねん」
「……?」
「解らへん、って顔しとうね、ふふっ」
未だ口を封じられて言い返せないかなでの顔を見て、土岐が笑う。
しかしすぐに笑顔は消えた。
「どっちも聞きとうないねん。拒否られたらと思うと心臓止まりそうやし、肯定やったら嬉しくてどうにかなってまう」
唇に触れていた指がそのまま頬に移動する。いつの間にかかなでの頬は、土岐の両手で包み込まれていた。
「あんたを……待つつもりでいるのに、そうしよって決めたのに。すぐにも決心が崩れそうになる」
ぎゅっと眉根を寄せた土岐の顔が近づいてきた。かなでには逃げ場もない。
そのまま、こつんと額を合わせて止まる。目の前には苦しそうな表情を浮かべた綺麗な男の人の顔。
かなでは土岐の手に己の手を重ねた。
距離は縮まっているはずなのに、それ以上近づくことができなくてもどかしい。
二人の体内にある熱が互いを求めていると、痛いほど伝わっているのに。
もしも今、キスしてしまったらきっと、もう戻れない。
それもよく解っていた。
【終わり】
初出:2010/08/21